松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

神戸で詩のセミナーが行われた。

http://www.poeca.net/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E8%A9%A9%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BCin%E7%A5%9E%E6%88%B8/event/3441/
11月2日・午後分科会(カッコ内は司会)
①テーマ「岩成詩学と若い現代詩」
岩成達也、岸田将幸、篠原資明、瀬尾育生、冨上芳秀、中尾太一藤原安紀子安川奈緒細見和之
という分科会に参加した。

そのとき配られた資料集(10p)に、安川奈緒さんの「「私が見たものなど、何ほどのものでもない」という覚悟から描写を始めるために」という現代詩手帖2008年5月号の載った短い文章があった。そのなかの数行をメモしてみた。

もはやわたしたちは自分が「像」として結べた映像はすべて破壊しなければならない。その像は愛しくもなんともない。得体のしれないシステムによって眼前にぶらさげられた、強いられた願望の像であるかもしれないからだ。そして、自らが結ぶことができた像に甘えてしまえば、自分が見たこともない途方のないものとの関わりを絶ってしまうことになるからだ。自らが像として自身に対して表象できるものなどなにほどのことでもない。わたしたち詩人は、自らがやすやすと像として結べないもの、不可視との約束を交わしたものであるはずだ。(略)わたしたちは描写に値するものを覚悟を持って奪われた、だから描写はしないのだ。
安川奈緒

それを、1行ごとにバラバラにして、松下昇「六甲 序章」などとまぜこぜにしてみた。それがひとつ上の戯文。