松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

不確定な人生を生きることは確定的である

 このような抽出の流れを、まだ数十倍にもわたって持続できるけれども、いまは、いくつかの理由によって中断する。いくつかの理由のうち最大のものは、もちろん、私が、この不確定な論文をかきつつあるということである。
http://666999.info/matu/data/hukakutei.php#hukakutei

 自分がある不確定な限定を受け入れていることが、ある作業を中止する理由だと述べている。この論理は奇妙に感じられる。何らかの確定的限定(目的)があるからこそ中断という行為がなされる。結果を生じさせた時点で確定は行われており、不確定と言いつづけることはできないはずではないか。
 先回りすることになるが「私(松下)のおこなっている作業が、不確定な主体による、不確定な表現を、不確定な方法で展開しつつあるということは確定的である」。
 「論文」とは審査を引き受ける決意である。一見前衛的随筆か何かのように見えるこの文章は、不確定な論文というタイトルと持ち、論文とは別のものだとはアイデンティファイしなかった。70年代の松下は人事・刑事・民事の重層化する審理を招き寄せながら〈大学〉を去ろうとしなかった、この文章が〈論文〉という表題を捨て去らなかった確信はそうした疾風怒涛をも招きよせてしまう。