松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

文章の滝

(たくさんの記号や、文章の滝)

嵐の前のまどろみの季節と後に規定されたこの時期に、(たくさんの記号や、文章の滝)という文字列が書き留められた。

ーー池よ、湧きあがれ、水泡よ、橋の上、森の上を、逆巻き押し流せ、ーー黒布とオルガンよ、稲妻と雷鳴よ、ーー盛りあがり、響きわたれ。ーー海水よ、悲しみよ、押し寄せろ、幾度でも大洪水を引き起こすのだ。
ランボー 「大洪水の後」より*1

滝とは川に比べると川の逆流というイメージをいくばくか含んでいるという奇妙な言い訳において、ここでランボーの一節をさらに引用することにしておく。
ここに引用するきっかけになったのはさらにこの断片のとなりに「おそらくイヴ・ドニのこの試みには、一九六八年の五月革命前夜における、彼自身の歴史意識が如実に投影されているのであろう。*2」という文を見出したからだ。
1871年パリコミューンが勃発、引きつけていうと高校全共闘の年齢でランボーはこれに出会う*3。その後といっても20歳頃彼は「大洪水の後」という詩を書く。百年後にイヴ・ドニという人が「大洪水はパリコミューンの嵐の喩」というエッセイを発表、宇佐美がそれを紹介しているということ。*4
日常生活はルーティンの反復のようだがそうではなく、締切や雪白つまり滝に満ちたものともイメージされよう。
倦怠は読めるはずの文章が無意味なもの(量)になる体験として表れる。
「滝」という一語から、このような三つのイメージを読み取りうると・・・

*1:イリュミナシヨンより

*2:(宇佐美斉)磁場13号p44

*3:丁度この約百年前、ランボーの生年もわたしの約百年前

*4:ランボー、宇佐美云々はいま私が追加したもので原テキストと無関係。