松下昇への接近

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万世一系とは何か > 長慶天皇

塩、庵、顔は カナで書く場合それぞれ しほ、いほり、かほ となる、昔から。定家や行阿といった人たちがその法則を探求した。
長慶天皇定家仮名遣に対する御批判」というフレーズがp53 時枝「国語学史」にあるのだが、長慶天皇っていったい誰だろうと思った。聞いたことがないからたぶん正式名称ではなく別名ではないかと思ってググると違って、正式名称だった。
wikipediaにあった。長慶天皇 第98代天皇 在位期間:1368年3月29日 - 1383年10月 ということである。

第96代 後醍醐天皇1318〜1339
北朝1代 光嚴天皇1331〜1333
北朝2代 光明天皇1336〜1348
第97代 後村上天皇1339〜1368
北朝3代 崇光天皇1348〜1351
北朝4代 後光嚴天皇1352〜1371
第98代 長慶天皇1368〜1383
北朝5代 後圓融天皇1371〜1382
北朝6代 後小松天皇1382〜1412
第99代 後龜山天皇1383〜1392

 明治44年(1911年)に南朝が正統とされたあとも在位認定はされていなかったが、八代國治の実証学的な文献研究により学術的な正当性をもって在位が確認された。

長慶天皇の代には交渉が途絶えており、また南朝方の武将である楠木正儀北朝へ帰服している事などから、北朝に対して強硬派の人物であったとも考えられている。1383年10月に朝要分免除の綸旨を出してから間もなく(1384年説あり)、弟の後亀山天皇に譲位したと言われており、南朝は再び北朝との和睦交渉をはじめる。南北朝合一後も京都へ戻っている形跡はなく、1394年8月1日に崩御、享年は52か。

書や詩歌を行い、源氏物語の注釈書である『仙源抄』や、詩歌多数を残している。

即位の事実は疑問視されており、江戸時代ころから議論がされていた。明治以降に実証的研究がなされ、大正時代には『長慶天皇御即位の研究』などが刊行される。1926年(大正15年)10月には詔書が出され、正式に98代天皇として皇統に加えられ、陵墓も指定された。

 1926年(大正15年)10月になってようやく(正式に)皇統に加えられたわけである。万世一系とか言いたがる人は今でも多いわけだが、万世一系が系譜として上記のように確立して強く国民に宣伝されたのは昭和始めのわずか19年間だけだということになりますね。