松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

それらの交差点に何かをねらって、

 二クラス分再履修して気付いたこと。各クラスで、それぞれちがった教科書、教え方をされているようですが、それらの交差点に何かをねらって、むしろ自分のための仕事の素材として授業を扱っているのではありませんか。
http://666999.info/matu/data/hukakutei.php#hukakutei

 「二クラス分再履修して気付いたこと。」さりげない文章である。「二つの会社に勤めて気付いたこと」「二回結婚して気付いたこと」その社会において自明とされているが別様でありうるそうした前提が無数に存在することにひとは、一度だけでは気付くことができない。二回めで初めて気付くことができるのだ。
・・・はてなだけでも私はこのブログ以外に、グループ二つを立ち上げ持続している*1。3つの場所でわたしは別の話題を語るだけでなく、文体や思想まで少しずつ変えてしまっているはずだ。
 わたしという固定的なアイデンティティからの自由。わたしの複数性、複素数性を松下は語った。ポストモダンにおけるそうした言説は、反戦や反体制を叫ぶ言説を忌避する傾向に全面的に流れていった。同じ複数性を語りながら、数十年に渡るラディカリズムの持続を形成しえたのは松下の特質である。
 (さまざまな)対象を取り扱う特権的な主体という関係を維持したままに、わたしの複数性、複素数性を語っても意味はない。そうではなく、世界の矛盾に誰よりも深く傷つき自己身体を裏返さなければ生きていけないといった切迫こそが、他者を自己に巻き込み、自己分裂の耐えがたさをある楽しみに変えうる。

*1:慰安婦問題を論じる」は管理者辞任。