松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

わたしたちは正義なしに議論できるのか?

「未来の権利」でもなんでも良いが、それを他人に納得してもらうためには何に訴えればよいだろうか?
やはり、正義や国民の幸福、あるいは真、善、美といった審級しか思いつかない。しかし現在そうした概念はひどく皆に嫌われている。
それが自己を責めることを恐れているのだ。しかし正義とは昔からそういうものだった。洋の東西を問わず自分がどうしようもない悪人であることその気づきに陥ることが、宗教の第一歩である。私たちはそれを忌避する文明に包まれている。21世紀が20世紀より悪い世界になったのはそれと無縁でなかろう。さて、
わたしたちは正義なしに議論できるのか?

――私は。「個人的に」差別は嫌いで、レイプを結果的にも正当化する類の言説は嫌いで、虐殺も嫌い。であるから。そういう類の事柄には言及もする。しかし。

それは。反差別が性暴力非難が虐殺否定が、道徳的正義であるからでも、ひいては正義漢面したいからでも、まして「皆が言っている」からでもない。幾度も記しているように、「私個人」にとっては、個人的な事情が一義の理由として所在し、あるいはそれに尽きる、かも知れない。ゆえに、これも再三記しているが、私自身は公に他人を「道徳的」「倫理的」に断罪することを、原則として好まない。(一文は省略した)
http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20080106

 へんに読みにくい文章だな。
例えば列強によるイラク占領のように、強者によってなされる不正義に焦点を当てて世界を考えるか?
何かが「公に他人を「道徳的」「倫理的」に断罪する」ことに該当するかどうか、に焦点を当てて世界を考えるか?
いつの時代も世界は悪と不正に満ちていた。21世紀におけるイラク戦争の悪を重視する必要はないかもしれない。しかしもっとも分かり易いと思う。そのような世界的徴候から考えると、上の問いのどちらを是とするか、答えは明らかだ。