松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

語られる死/語られない死

   −−−3人の子どもたちは殺された。

アル・ショービ家:
2002年4月、西岸ナブルスに住むショービさん宅を真夜中にイスラエル軍が攻撃し、警告も発さず、D9ブルドーザーで家を取り壊した。原告のマフムードさんの父、ウマールさん、姉妹のファティマさんとアビールさん、義理の妹で妊婦だったナビラさん、それに3人の子どもたち(4歳、7歳、9歳)の全員が殺された。イスラエル軍は家を取り壊した後、その一帯に厳しい外出禁止令をしき、救助者の立ち入りを認めなかった。1週間後になり、家族の遺体は家のがれきの下から、親類や近所の人々により引き出された。
http://0000000000.net/p-navi/info/news/200710292344.htm

 ニュースになって多くの人々の心を揺り動かす「死」もあれば、言葉になしえないほどむごたらしい死でありながら、すくなくとも日本を含む先進国の大衆に一瞥しか(あるいは「一瞥も」)与えられず忘れられていく死もある。
 レイチェル・コリーの死は語られるが、上記のナビラさんの死は語られない。長井健司さんの死は語られるが、同じ日に倒れたビルマ人の死は語られない。
 沖縄のいわゆる「集団自決」についてもネット右翼の感じ方とは違って実際には被害はほとんど語られなかった。

さて「チビチリガマが語られないのは何故か?」それは「あまりに悲惨であり(それだけでなく)その悲惨な愚行にわたしも荷担した」ということ。自分だけならともかく最も親しい人が犯した血みどろの犯行について証言するべきだ、とあなたは言うだろうか。孔子なら否定しただろうその問いかけに。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20060905#p2

 上記のナビラさんの場合はどうか。イラクでは十万人以上のイラク人が死んでいる(らしい)。パレスチナではそれほど多くの人が殺されているわけではない。殺しているのは理性の塊であるところの国家であるから。国家が平時に上記のような行為を行い、糾弾の声もあがりながら、その声は世界中のヒューマニストによって拾い上げられることがない。
 このような善意の政治学の 大きな弯曲こそが、パレスチナイスラエル問題である。