〈光〉をわたしたちは見ることができない。
あらゆる法的な屋台骨は〈神〉もしくは〈人民〉の至高性を前提としている。知っているのも決着をつけるのもこの〈神〉や〈人民〉である。〈神〉と〈人民〉は債権者なのであり、この債権者はその日ごとの契約による会計には従っていない。ルジャンドル p118『真理の帝国』isbn:4409030663
おそらくわたしたちが完成させた戦後民主主義においては、この至高の場を占める物は、自然的なものであるとされ語る必要が無いとされるがゆえに語られないところの〈(母性的な)国家=日本〉である。
−−どんな絆においても、絆は二重である。法的会計に属し、目に見え語られもする絆がある一方で、絆であることを隠され、芸術における詩的な煌き以外をもってしては絶対に語れない大文字の絶対的〈他者〉の会計に属する絆がある。政治的なものは、真理との絶対的な関係を手中にした至高の審級に準拠するものと仮定される言説空間を経由して機能するのである。絶対的関係とは、言説を保証する原則がそこで作用しているということを意味する。つまりそこにはいわば語る力能が働いているのであり、どんなシステムのどんな権力もその力のおかげで、それぞれに固有の正当化を生みだし、語りかけ、そのことばの語り手として認められているのだ。
ルジャンドル p119
絶対的〈他者〉の会計というほどたいそうなものかどうかはともかく、インド洋給油問題においてもそれを語るべき審級をうまく思考するのは容易ではない。それは国際貢献だだからそれの中止は国際社会への裏切りだと語られる。その「国際」とは何か、かつて列強(Powers)と呼ばれた大国によって形成された国際秩序にすぎない。アフガンでタリバンの隣にいたから殺されてしまった庶民が数千人いてもそれらはプレイヤーじゃないから数え上げられることもない。議論の前提は数十ページの論文を最後まで読んでも語られることはないのだ。
昨日引用した小沢書簡では、米英などに協調することを国際貢献と強弁してきたことを否定する。その根拠として、「つまり、個々の国家が行使する自衛権と、国際社会全体で平和、治安を守るための国連の活動とは、全く異質なものであり、次元が異なるのです。国連の平和活動は国家の主権である自衛権を超えたものです。」と、上位審級としての国連の存在を指摘する。それに対していわゆる左翼は、「国連の名による」と言ってみてもそれは列強の利害そのものにうすいオブラートをかぶせた物にすぎない。そんなもののための海外派兵などもってのほかと激しく批判する。まあそれはもっともなのだが。
ルジャンドルから話がそれたままだが、民主党が政権を取るかどうかに興味も関心もないといってもよいわたしは、それでも小沢書簡をどこかで擁護したいという思いがある。米英への協調が国際貢献であるという論の批判は、共産党や社民党も昔から述べていたのだから小沢の得点にはならないのだけど。*1
ルジャンドルというひとの本は百頁読んでも、何に付いて何をいいたい本なのかいまいち分からないという困った本です。 乱文失礼しました。