松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

それは光のうちでしか視られえない

闘争が初めて、聞いたことのないもの、いままでに言われたことのないもの、思惟されたことのないものを企投し、展開する。この闘争は創造者、すなわち詩人、思惟者、政治家によって担われる。
ハイデガー)P206*1

ハイデガー全共闘だったのかみたいなセリフですね。いわゆるナチ疑惑を論じた文章からの引用です。ナチのなかにも全共闘的なものは存在したのでしょうね。
「存在は現在からではなく、別の時間(将来)から理解してもよい。」といったようなことをハイデガーは言ったらしい。p47
現在というものには何も余地が無く、不確かさへの無自覚な乗っかりにより「現実」というものが構成されているのであるから、別の解釈(生き方)に対してわたしは開かれている。に違いないわけですが。

細川亮一さんという方の『ハイデガー入門』という本を読んでみた。えー、

存在は、存在者を存在者として規定するもの、存在者がそのつどそれへ向けて理解されているそれ(woraufhin)である。 p62

存在者 −> 存在 −> 存在の意味(時間性)
 −>:次の項は、企投されるべき投影面
第1編 現存在という存在者をその存在(現存在の存在としての気遣い)へ向けて 解釈。
第2編 現存在の存在をその存在意味(現存在の存在の意味としての時間性)へ向けて 解釈。
存在は時間の光のうちで理解される /現象は光のうちで視られうる

というふうなことが書いてある。*2

Woraufhin(それへ向けて理解されているそれ)がキーワードであると細川氏は言う。
例えば、物理学の場合、裸の事実は存在しない。ものを先行的に開被する地平、その量的に規定可能な構成契機(運動、力、場所、時間)によって構成される地平、そこにおいて事実は見出されうる。 P120 なるほど分かり易い!

宇宙はビッグバンという数学的パラダイムにおいて理解され研究される。
宇宙/パラダイムという2項において、前者を論じたり否定したりすることはできても後者を論じたり否定したりすることはできない。ビッグバンというパラダイムの妥当性は多数の学者が従事しているという政治性だけに依存している。それは、ビッグバンというパラダイムを頭から拒否する権利は、わたしのようなひねくれ者に対して与えられていないわけではない、ということを意味する。

だから行こう、われわれが開かれたものを見るために
・・・・・・
各人は彼が行きうるところへ行き、来たりうるところへ来るのだ。(ヘルダーリン)p248*3

わたしたちは<行く>ことができる。 しかしそれには呼びかけが必要であり、それはしばしばやってこない。

*1:isbn:448005877Xハイデガー入門』

*2:言葉が繁雑になるのでいいかげんに切り詰めたがそれはまずいのだろうね。

*3:isbn:448005877Xハイデガー入門』