松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

哲学と宗教の狭間


欧陽漸っていったいどこの誰なのか、と疑問を持った方がいてもウィキペディアにも載っていません。そこで最低限の引用だけしておこう。

哲学と宗教の狭間

−−近代中国思想における仏教の位置づけ
陳 継東


 一九世紀末期一二〇世紀初頭の中国において、仏教は近代

に対応するための一つの思想的淵源となった。仏教は宗教と

哲学という二つの近代的概念によって再解釈されることによ

って、あるいは、宗教と哲学の両者と対峙することによって、

はじめて近代中国において強い影響力を発揮しえたのである。

 この仏教の二つの方向性は、少なくとも二つの大きな結果

をもたらした。一つは、中国の社会・民衆を救う改革・革命

的救済理論として仏教、特に唯識学が高く評価されるように

なったことである。この方向を推し進めていったもっとも著

名な人物として、章炳麟(章太炎)がいる。章炳鱗(一八六八―

一九三六)は清朝末期において、満州族の支配する清王朝の圧

迫から漢民族の自立を回復し、列強の侵略に抵抗するために、

「法相の理、華厳の行」を革命の方法として主張した。彼の

いう革命は、中国社会の再建のみならず、個の確立とい

った部分にも関係している。もう一つは、仏教を宗教・哲学

と対峙させることによって、仏教の独自性と優位性が確認さ

れ、真の仏教への回帰運動が興起されたことである。その代

表的な人物は、欧陽漸(欧陽竟無)である。

 この二人は異なった時期に、いずれも仏教の唯識学に基づ

いて仏教と宗教・哲学との関係を論じた。章炳麟は、日本亡

命の際(一九一〇)に、「仏法と宗教・哲学及び現実との関係

を論じる」(論仏法与宗教・哲学以及現実之関係)と後に名づけら

れた講演を行ない、仏法(仏教)が宗教でなく、哲学の仲間だ

とした上でそれは単なる哲学にとどまらない「哲学の実証

者」であると主張した。一方、欧陽漸(一八七一〜一九四三)は

一九二〇年代前半に、「仏法は宗教に非ず、哲学に非ず」(仏

法非宗教非哲学)という講演を行ない、仏法(仏教)は宗教と哲

学を超えたもので、時代のニーズに最も合致する教えである

と断言した。このような思考は決してこの二人に偶発的、孤

立的なものではなく、近代中国思想の展開において重要で、

広く議諭し続けられた問題である。その延長線上に近代中国

最初の体系性を備えた、もっともオリジナリティーに富んだ

哲学である熊十力の『新唯識論』(一九三二年)という「哲学」

が登場したのである。
P105 「思想 2007年9月号」

 なんかもっといろいろ書きたいのだが、うまく書けないのでまたこんど。