松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

正確であること

仏法はただ執着を打破するだけであり、執着するものがひとつもないのが仏なのである。このため、仏は法を説く時に、真理を説かないで真如を説く。真如とは一切存在の分量が不増不滅であり、もくろみや推察をしないことである。一切存在は如是[このとおり]で、それを説くのも如是である。体*1はその体のままで、用(はたらき)はその用のままで、決して一つの真理へ集中することもない。凡夫が減るわけでもなければ、聖人が増えるわけでもない。ものの当体はそのあるがままの真実であり、証得しなければならない。……[証得するとは]真を求める必要はなく、ただ妄を取り除けばよいだけである。……そのため、執着を打破すれば法となる。別に仏があるのでもなく、別に法があるのでもない。
(欧陽漸)P134 「思想 2007年9月号」

 真理を求めるため仮説や実験装置や調査などいろいろ道具立てをすると、絶対にそれに囚われた真理しかでてこない。それより以前に、真理=イデア的な物という発想自体が、それに囚われた真理しか生み出さない。
 一方で、如是[このとおり]をそのとおり生きようとしても、 *2絶対的矛盾*3を積極的に承認することになる。
 しかしながらこのことは逆説的に、真理や如是の必要性を明かしている。
真理を如是として求めることは決して現状追認ではなく、批判を生きることでもありうる。

*1:朱子学の「体用」論をふまえている

*2:(現実〜秩序が内包する)10.23追加

*3:例、戦争や国家悪