松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

学校をなくすべきである。

 僕は、学校的なものが人間にとって必要であるかどうかということについての判断を前提にはしません。そうではなくて、学校をなくすべきであるということが僕の出発点なのです。だから、学校が必要かどうかということは、ささいな問題です。必要ないならそのままなくせばいいし、必要だということになればその必要性をなくせばいい。このような出発点の設定には、ただ僕がそれを選んだという以外には、何の根拠もありません。
http://d.hatena.ne.jp/toled/20070923#1190541968

 この発言は無茶苦茶なようだが、でも興味深い。「学校をなくすべきである」から私は出発すると。
でも学校をなくす必要などあるのだろうか? 行きたくなければ行かない自由を保証せよというだけで十分ではないのか。「学校をなくすべきである」のは「学校がある社会はそれがない社会より不幸だ」という前提があるからではないのか。しかし19世紀まではだいたい「学校はあるが学校と無関係に生きている人の方が多い社会」だった。「学校をなくすべきである」は乱暴過ぎるのではないか。

私は<大学解体派>の裔である(ありたいと思っている)。大学解体とは何か?

松下昇氏による神戸大学の自主講座のヴィジョンのメモを引用しておきたい。

ここでは69年段階の神戸大学の自主講座のプログラムが、どのように具体化されていたかを
<メニュー>論への参考として記しておきたい

(1)教養部正門を入って左手の大教室B109の黒板に、今後一週間の日付と午前・午後・夜の枠のみを記入しておき、任意の参加者が、自分の提起したいテーマを希望する時間帯に記入し、実行する。ジャンルの制限なし。

(2)B109教室は全学的な集会の場として使用するのに効果的な位置にあったので、集会を自主講座のテーマとして提起する者もあり、参加者の討論を経て了承された場合には、自主講座のプログラムに入れる。他の教室や学外での活動についても同様。

(3)一週間を経過した段階で、それまでの活動に関して総括討論を行い、これに参加したものは、学内者・学外者を問わず、次の一週間の自主講座運動の実行委員会のメンバーとなる。

 このような原則に基づいて、70年3月の入学試験を理由とする全学ロックアウトまで約1年間にわたって、殆ど連日の自主講座が展開された。70年3月以後1年間にわたりB109教室のロックアウトは持続し、自主講座の場や方法も飛翔していく。絶えず原点にもどりつつ。詳細な経過は<神戸大学闘争史ー年表と写真集ー>を参照されたい。現在までの自主講座のメニューの総体については、今リスト化しつつあり、重要テーマは、概念集の今後の項目でも取り上げていく。(このパンフの<自主講座>の項目参照*1 )

 なお、(1)でのべた黒板へ任意に記入されたテーマの中で、現在まで最も衝撃的であり示唆を与えるのは次のテーマである。

 <自分にとって実現不可能にみえるテーマの一覧表を、どのように表現するか。>

http://from1969.g.hatena.ne.jp/keyword/%e3%83%a1%e3%83%8b%e3%83%a5%e3%83%bc

 <自分にとって実現不可能にみえるテーマの一覧表>という発想が面白いと思う。自分というものは、意識ではとらえられない可能性や不可能性に取り巻かれて情況の中に脈打っている不定型なものであり、むしろ実現不可能にみえるテーマならテーマを一覧表にしてみるとそこにはじめてある定数がぼんやり浮かび上がるかもしれない、といった発想だろうか。
 さて当時は「反大学」とかいったスローガンが流行った。おそらくtoledさんからは、「反大学」という思想自体が、自らが大衆を指導しうると信じたマルクス主義などの影響を受けた独善的なところのある思想だったのではないかと批判されるでしょう。まあ批判はあたっていなくもない。
 しかし上に抜き書きしたメモからは、なんらかの先行する思想やイデオロギーに頼ることなく、<いまここ>から何かを生み出していこうとする勢いを方法化しようとしており、数十年後にあらためて読みかえしそこにヴィジョンを確認するに足るものだ、とわたしは思います。

 toledさんは、自分の思想的テーマ(あるいは根っこ)にある意味では「早く」出会いすぎ、その核心をヴィジョンとして分節化する点が少し弱いのではないか(僭越ながら書き留めてしまいます。)まあそれは困難なことなのですが。

「「対案についての思考」を禁止します 」というタイトルも興味深い。一見相手の主張をアプリオリに否定する、対話拒否のようだが、そうでもない。しかし、
「このような出発点の設定には、ただ僕がそれを選んだという以外には、何の根拠もありません。」と言ってしまったら、説得力ゼロの自認になる。 相対化するレトリックに頼るだけではなく、toledさんの学校否定論の「思想」をもっと聞かせて欲しいと思った。

*1:「概念集・2」p7-8、もうすぐ掲載します。とりあえず、下記を参照してください。http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/jishukoza.html「自主講座」 掲載しました。http://from1969.g.hatena.ne.jp/keyword/%e8%87%aa%e4%b8%bb%e8%ac%9b%e5%ba%a7