松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

哲学/革命について

1.わたしはある。について考察する。
「在る。」を行為として考えると、わたしではなくむしろコンピュータについて考察しなければならない。すなわち「在る」とは、文字であり、文字コードであり、エディターであり、OSであり、バイオスである。
「在る。」が存在できるためには、エディター、OS、バイオスなどなどが立ち上がっていなければならない。
2.しかし、
「在る。」を行為として考えるとはむしろ、エディター、OS、バイオスなどのことを考えないことではないのか。スポーツをしているときには「そもそもスポーツとは何か」など考える必要がない。文章を書くときは何を書くかに意識を集中しなければいけない。エディター、OS、バイオスなどのことなど考える必要がない。
3.生きるうえで、必須である、私たちがその上で活動している国家、資本主義、国語などといったものについて、わたしたちは考えることができるのか?
不可能だという答えはもっともである。(仮りに)わたしが考える上でなんらかのエディターが必須であるとすると、エディターがないとわたしは考えることができないのだ。エディターについてわたしたちはどうやって考えることができよう。つまりわたしたちはすでにエディターという言葉を持ちそれが作られたものであることを知っている。しかしそうではない場合はどうか。数十年勤めた会社を突然首になったらどうやって稼いだらよいのかわたしたちは途方にくれる。それと同じように私はOSの上で生きてきた以上、OSを認識できずに生きてきたのだ。
4.OSについて考え、作成することはできるのか?
Yesとわたしは答えることができる。