松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

選挙のことは口にしないという美意識

「現実主義」は、私たちにささやきます。反石原で統一することが、イシハラを打倒する唯一の実効的な策であると。しかし、敵対性を外部化し、主流左翼が階級闘争を放棄してしまうようになったこと自体が、イシハラの台頭を招いたのではないでしょうか? 私たちのシステム自体を根本的に規定する敵対性が忘却されているために、「三国人」のようなニセの「敵」を攻撃するイシハラに人々は溜飲を下げるのではないでしょうか?
http://d.hatena.ne.jp/toled/20070324#p1 (元)登校拒否系

  選挙で日本の政治を変えることができると強く主張する人たちがいるが疑わしい。政治といえば、60年安保や大学紛争は大衆が政治を変えた例だ。政権交代などは獲得してないので敗北ともいえるが社会の思潮を変えたと評価しうるだろう。近年では“イラク三馬鹿”バッシングに続くネット右翼の盛り上がりは、現在の慰安婦問題でも維持されており政治に影響を与えている。
 つまりデモだけでなく、職場や友人との会話、ブログなどの発言すべては政治的に評価しうる。それぞれの人がどういう生き方をするかということの全ては政治的なものだ、といいうるわけである。
 であるから、「選挙」というシステムだけを特権的に政治的行為として尊重しなければならない理由はない。
選挙に行くことは簡単なんだから行くべきだと人は言う。そうだろうか。無償に近い行為をすることにより何かを得られることなどない、という昔の人の知恵が正しいのではないだろうか。

(私が東京都民なら浅野さんに入れるし応援もするかもしれない。上記とは矛盾しない。)