松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

挙証責任は転嫁しえない。

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まず彼ら(「中道右派」氏たち)は、慰安婦たちの証言は信用できない、と感じる。異和感があるのは当たり前である。彼らは戦争を知らず知らないところの自分の感受性を基盤にしてしか判断できない。問題は他者に出会ったときその自己をほんの少しだけ相対化できるかどうかだ。
彼らは証拠を出せと言う、俺を納得させろという、つまり〈俺様裁判官〉である。
おそらく彼らは慰安婦という真実を直視できないできないだけではない、南海の名前すら知れれていないような島で餓死していった無数の皇軍兵士たちの真実も直視できない。「お国のため」といい靖国神社といい要は真実を直視しないためのまやかしにすぎない。遠くで死んでいった人の屍体は語らず、見えない。見えないことに安住したい人が慰安婦たちの証言に耳を閉ざしているのだ。
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さてこのような真実から積極的に目を反らせる〈俺様裁判官という装置〉はいくつかのやり口からなる。そのもっとも重要なものは、「証拠を出せ」である。
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私は、日本の戦争犯罪といわれるものだけが蒸し返されるのは、日本の対処が不十分だからではなく、単に日本は責め立てれば金を出すと思われているだけだと思います。
敗戦後の完全に無防備で冤罪までも処罰された戦犯法廷ですら問題にならなかった事件は、当時の戦勝国や旧海外領土の民族の法意識では犯罪では無かったからだと思います。
野原3/10のコメント欄「中道右派」さんコメント(2007/03/13 02:32)

日本に有責性があるか?、という論点は、「賠償しなければならないほどの有責性はあるのか?」というより狭い問題にすり替えられる。
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このすり替えによって、「疑わしきは罰せず」という刑事手続きに類似の形が要請され、挙証責任が「あった」と主張する側にだけ負わされ、「証拠を出せ」攻撃というゲームが成立する。
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しかし、慰安婦(性奴隷)の問題について、まず問題をどう捉えるかという出発点の段階で、なかった派とそれ以外には差異があるのであり、それを無視して「証拠を出せ」ゲームなどする余地はない。