松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

真実をみつめようとしないという弱点

いまの私には、人間が真実をみつめようとしないで、自分に都合のいいような考え方を現実に対してしようとする、そんな人間の弱点を憎みたいのです。日本人は大体、こういう弱点が強すぎるようですね。自分の都合のいいようにばかり考えてはじめた戦争が、こんなに惨めな敗戦に終わった現在に於いても、まだこの冷厳な敗戦の真実を率直に受け入れようとしない日本人の民族的貧しさに、私は憎悪をさえ覚えるのです。これは私自身が何よりもそうなので、自分に対する憎悪に泣き出したいくらいなのです。
田村泰次郎「沖縄に死す」より

 満州を建国した時点で、日本はソ連アメリカのどちらかあるいは両方と戦争を覚悟していました。したがって中国なるものとの戦争に兵力と時間を費やすつもりなど計画には全くありませんでした。ちょっとちょっかいをだして“良いとこ取り”だけして講話を結べるはずと甘ったれた根性をだした結果が、「こんなに惨めな敗戦に終わった」わけです。
 ところが特に最近この冷厳な敗戦の真実の正反対を、高唱する“なかった派”が勢力を増しています。存在の根拠がへど、とわたしには思えるのですが。

 私は叔母さんに申します。どのようなむごたらしい、へどの出るような血腥(ちなまぐさ)い場面でも、叔母さんの頭のぎりぎりで想像せられるかぎりの場面を想像なさるがいいです。恐らく、それが光直君の最後の場面に近いでしょう。

 貞世叔母さん
 こんな私のいい方は叔母さんをいやがらせるために、わざと惨酷なことをいっているように聞こえますね。そう取られても仕方がないのです。どうやら、そういう気持もたしかにあるのです。(略1)光直君の死の自覚を、叔母さん自身が持たれるようにおすすめしようとするのも、そういう気持ちからにちがいありません。おゆるし下さい。

上記(略1)のところに上の引用が入る。
上の引用だけなら調子はとても強いが戦争の反省という一般論である。安吾堕落論のバリエーションの一つと理解することができる。田村はそれだけでは満足することができなかった。「この冷厳な敗戦の真実を率直に」みつめること、それは誰にとっても当然の目の前にある真実であるから認めるべきだと田村は強く主張する。しかし結局のところ、弱点を批判し克服して進んでいくことができるものであると、人間を田村は捉えていなかった。弱点を「否定」でも「批判」でもなしに「憎む」という言葉を使ったところに田村のそうしたスタンスが表れている。
 大陸から沖縄へ転戦しそのまま生死不明になり未復員のまま1年ほど経過してしまった従兄弟の「光直」君が、生きて返ってくると信じたいその母親(貞世)の気持ちを、語り手は批判する。批判は説得力を持たないかもしれない。
実際、下記の事実を知っているわたしたちは、昭和21年十月つまり敗戦直後も直後という時期に、そのような認識を表明した文学者がいたことに驚くだろう。
昭和29年9月、菊池章子岸壁の母」が大流行(100万枚以上)。昭和47年には二葉百合子が再び大ヒット(300万枚以上)

母の愛は錯誤に満ちたものであっても貴いだろうか? 貴くてもそうでなくても「それは錯誤である」と田村泰次郎は泣きながら指摘する。

なぜ、戦後日本は植民地の体験や侵略戦争の体験をとらえそこねたのか、文学はそのときどのような制約となり、どのような突破力をもたらしたのか、こうした問いはまだ答えを得ていない。
http://www.nihontosho.co.jp/renewal/isbn/ISBN4-8205-9888-0.html

こうした問いを考えるときに最良の「資料」として紅野謙介日本大学教授)は田村泰次郎を推薦している。
わたしも同感である。