松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

喜んで死地に入り一命を致さんと

平泉澄の『武士道の復活』という本がたまたま図書館のリストにあったので注文してみた。
400頁もある大きな本だ。昭和8年の出版。
「多年に亘る道徳的頽廃と経済的貪婪との為に行詰れる世界が、その辿りつつある自滅の途に踵をかえして、正しく雄々しく新しく清く蘇らんが為には、或いは百年、或いは二百年三百年の長き間、西欧の支配に膝を屈し、その物質偏重利己第一の弊風の跳梁跋扈に委ねたる亜細亜の、再び己の本分に目覚め、己の行くべき道にかえり、己の真面目を発揮せん事を、緊急必要とする。」p1
と冒頭で、亜細亜の覚醒、西欧との戦いの予感を高らかに歌いあげている。
武士道と言いながら、時代を作っていくという気概にあふれた「亜細亜の自覚復興」がテーマのようだ。
「之を客観的に考察する時、失われたる亜細亜における唯一の世界的強国として、亜細亜を指導し、鼓舞し、保護するの大任は、まさしく日本に帰しなければならぬ。」p3
ということで結局日本の、正しき日本精神の問題になるのですが。
「殊にその所謂学者識者の、偏に外来文化に心酔して、自国の伝統を無視するは、古来の弊風であって、今に始まった事ではない。」p4
このような基準では、七〇年後の今日は、学者だけでなく経済人マスコミも一般大衆も外来文化に心酔していることになりますね。

日本精神の核心とは?

殊にその倫理を究めて大義に徹底し、湯武の放伐を許さず、易性革命を非として、絶対の忠義を説き、君たとえ君たらずとも臣臣たらざるべからず理を明にしたのは闇齋の偉功であり p15

しかしながら武士道の名に於いて之を喚び起こす時、特に注意すべきは、苟(いやしく)も道義のさしまねくところ、喜んで死地に入り一命を致さん*1とする義烈の気象の之に伴い来ることである。即ち武士は、日本人の道を、命にかけて実行実践し、その為には潔く散ってゆこうとする気象に於いて秀でているのである。p6

一人の日本男児が命を惜しまず、国のために散るコストは、大日本帝国において著しく低かった。
イラク占領への荷担においては、一人の日本人男性の命のコストは、イラク人はおろかアメリカ人よりずっと高かった。(今のところは)。保守派の人もそのことには同意していた。それは肯定すべきことだ。

何が正義で何が正義でないかを判断する能力が最も大事である、と思わない人が今でもけっこう居るというのが大問題である。
米国の意志に随従することが、闇齋の言う「絶対の忠義」であるかのように振る舞うのが正しいと思っている人たち。
「絶対の忠義」とはまさか口に出せないので「マブダチ」とか口走ってしまう。
他人事ながら*2穴があったら入りたいほど、恥ずかしい!

*1:致命とは、身をなげ出すこと。「字通」

*2:わたしたち=日本国家はまあマブダチ主義以外の何ものでもない理由で米国に追随しているのですから、他人ごとではないですね。