松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

もはや護憲からは出発できない

 市野川容孝氏の上の意見は、安倍首相のナルシスティックな愛国主義に危機意識を持っている層には、すんなり受け入れられるものだろう。

しかし、分かりやすい危機が出現するはるか以前から、わたしたちは議会への信を失っていたのではないか。
 議会制民主主義を(不本意でも)受け入れる以上、民主主義とは次のようなものでしかありえない。と研幾堂さんは指摘する。

 議会が何をすることが出来、それがどれだけの意義を持っているかを、絶えず我々は指摘し、確認し、それが実際に行使されるように促すことを勉めねばならない。そして、議会で言及されたことが、その持つべき政治的意味を帯びるようにしなければならない。政府は、議会で確認されたこと以上のことはしてはならないのであり、議会に対して十分に語らない政府、議会に於いて十分な検討を経ていないことをする政府は、不当にして逸脱した政治運営の証しであり、それは言わば「暴虐の」政府とも言い得るものであることを、我々がしっかりと意識するようにすべきである。
http://d.hatena.ne.jp/kenkido/20061116

 わたしたちは一度も議会をまともに捉えたことがなかった。
 「非「民主的」政府が、「民主的」価値によって生きている人々に、その価値に反するような命令、あるいは強権的行為を行なっている、という政府対市民の対立的構図」は、野党にも与党にも好ましいものと思われた。(野党(社会党共産党)と自民党は同じ穴のむじなだと批判した新左翼は議会を否定した。)戦後民主主義において、民主主義は野党であり政府は抑圧する権力であるという図式は、有力なアンチテーゼをもたなかった。自民党側の見解もニュアンスが違うだけで議会の権威を尊重するものでなかった点では同じだ。

 そうすると例えば形式的には全く正しい「タウンミーティングのやらせ批判」が大衆の怒りに結びつかない理由はいまや明らかであろう。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20061110#p2 セレブ民主主義で述べたように、歴史の浅いタウンミーティングだけでなく、公聴会や審議会、委員会、検討会などすべてが、儀礼でしかなく議論によって何かを解決しようとする真剣さと無縁なものであることをわたしたちはすでに知っている。であれば誰が「怒り!」をいだくことができようか。


情況はどうしようもない。しかしこれに対して研幾堂さんは言う。

統治機構としての議会、しかも、その統治機構に於ける最高機関としての議会を、我々は、思念出来ていないのである。我々は、早急に、議会思想を、しかも必要な限り内実のある議会思想を構築しなければならない。(同上)

行政というものが統治の具体的作用として為される様を、まさにその具体的規整力の結果する、我々の社会生存、あるいは社会生活の状態を踏まえて、その適不適を認識し、その行政的作用を、安直に国家を暴力装置の如きものと決めつけずに、あるいは国家は必要悪などとしたり顔をせずに、国民主権の統治としての統一性の中で理解するに勉め、そして、最高機関たる権威と権能あるものとして議会が実際に営まれる在り方を思量して得られる議会思想の充実を目指し、この思想に於ける理解を踏まえた認識をして、我々の政府の在り方を論ずるに至らねばならない。(同上)

わたしたちが現行の日本国憲法を生かしていくという立場に立つ限り、研幾堂さんの主張は正しい。「政府対市民の対立的構図」に甘んじ野党を甘やかしていてもどうしようもない。

 したがってここで、お前は、現行の日本国憲法を生かしていくという立場に立つのか?という問いに答えておかなければならないだろう。
 私は躊躇する。<すべての権力を自主ゼミ実行委員会へ>というスローガンは展開されてもいないし空想的に見えるだろう。しかし60年後にあらためて議会の権威を確立しようと努力することと同じように困難である。ようにも思える。
 現行の国家(国会)や憲法という権威から発想することに、もはや有効ではない。たった一人の自分が自己の哲学で国家と向き合うというところから出発するしかないのだ。