松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

わたしは捧げられる

 我々が自らの生を認識のための実験に捧げようとするとき、生と認識の関係はもはや外的なものにとどまりえない。生が認識の試金石となり、また認識が生の試金石ともなるのである。ここでは“誰がオイディープスであるのか。誰がスフィンクスであるのか”。生に対して我々が問いかけるとも言えるし、生がその深い謎によって我々に問いかけるとも言えよう。
p31 田島正樹ニーチェの遠近法』

 “捧げる”という動詞は、生け贄の羊とかを超越者に捧げるといった時に使う。わたしが“生け贄の羊”に比喩されるとはどういう場面だろうか。自殺の場合は良かれ悪しかれ、私は“羊”として殺されてしまう。殺すことによりわたしは一瞬超越者の立場に立つがその超越者は一瞬ののちに消える。であれば自殺しないことはその超越者が消えずに生き残ることであろう。“なぜ人を殺してはいけないのか?”この問いはダミーでありわたしは“人を殺す者”としてだけ生きのびるのである。
 わたしたちは絶対的な自由を手にしているが、その自由を行使するすべを知らない。

(前略)自己決定の悦びや力、次のような意味での意志の自由といったものが、考えられるだろう−−つまり、この自由にあっては、精神が、そのあるがままに振る舞いながらも、ほっそりとした綱や可能性の上に身を支えることができ、深淵に臨んでさえなお踊ることができるすべを会得して、いかなる信仰・いかなる確実性への願望にも訣別を告げる、そういう自由である。こういう精神こそが卓越した自由な精神であるだろう。
ニーチェ 悦ばしき知識三四七  p36同上から孫引き

 
自由とは何か?
「一方には“我欲す”があって強い意志と自由な精神とを表現し、他方には“汝なすべし”があって、他律性と弱い意志の徴である*1」このような図式は分かりやすい。服従者ではなく命令者に、弱者ではなく強者になるべきだと。実際ニーチェ自身そのように説いているようでもある。しかしこのような図式は間違っていると田島は説く。「命令者は自ら自身の規範的原理への服従者であり、自らをこの原理によって制御するものでなければならない。つまり命令者と服従者は互いに分身のようなもの*2」でしかないのだから。
 そうではなく自由とは、悦びであり、深淵に臨みながらダンスすることである。

むしろそれは、ある種の解釈の特徴と見なさなければならないものなのだ。つまり広い事象のうえに君臨して意味を支配し配分する適切な解釈、またそのような解釈を創造し発見する能力のことであり、翩々する事象のなかにあっても臨機応変に軽やかに難局を切り抜け、現象を支配する、しなやかでとらわれのない精神のことである。すなわち、精神のつねに創造的な自由のことである。*3

*1:田島同書p34

*2:p34

*3:p35-36