松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

〈放棄〉というベクトル

欲望は人の本質である。すなわちそれは、人がその人自身の存在を維持しようとする努力である。

というスピノザの言葉があるようです。この場合、欲望は何に向かったそれかというと、ひたすら本質とか〈存在〉とかいうものへ向かっています。通俗的な他者の所有や他者からの承認といったものとは無縁の場所にあるのです。
ではこの〈存在〉とは何か?
難しいです。普通いう存在とは、ジェントルマン、社会人、国家=市民といった立派なイメージと連続した意味合いを持つと思います。ところがスピノザのいう〈存在〉はあえていえばそれとは逆のイメージを持っています。
あえていえば〈離脱〉や〈放棄〉といったイメージをそこに読み込むことも出来るのではないでしょうか。


で無理に話を引きますが、私はこの2週間ほど(まあ)懸命にコンピュータ関係の勉強をしてみました。格段その資格を得てどうしようとかいうわけでもないのに何故?何が私をそうさせたかと考えてみると、〈離脱〉や〈放棄〉といったものへの言葉にならない欲望、と言ってみてもよいのか、とふと思ったのでした。