松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「国益を基準にして考えること」の危険性(10/1記)

下でkechackさんからコメントいただいた。その時に書いたがkechackさんの問題意識とは関係ないので分離して上に上げます。
また一方では、kechackさんの議論とは別に、次のようにいうことも出来ます。これがちょっと気に掛かったので書いてみます。
国益」を基準にして考えること自体、大きく間違うことがある、と。
つまり満州事変以後の日本の外交・軍事においては、帝国主義的常識を前提とした上で意見や路線の対立があり「国益」論があった。その場合、前提となる常識を覆さないかぎり、結局の所、なんらかのカタストロフに至るしか無かったのではないか。仮にそうだとすれば、満州事変以後の日本でいかに真摯に国益を求める探求をしようがそれは結局空しいものでしかなかったことになる。
そしてこれは過去のことではない。「米国によるイラク戦争〜占領は結局の所悪である」これは明らかであると思われる。
日本の国益アイデンティティに致命的な影響を及ぼすわけでないイラク問題で冷静な判断ができないような政治家やブロガーは、「国益」という言葉を使う権利がないと思う。