松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

日本人は頸狩り族だった!

平家の人々は、宮*1並びに三位入道*2の一族、三井寺の衆徒、都合五百余人が頸(くび)、太刀、長刀のさきにつらぬき、たかくさしあげ、夕に及んで六波羅にかへりいる。兵者(つはもの)共いさみののしる事、おそろしなンどもおろかなり。
其のなかに源三位入道の頸は長七唱(ちょうじとなふ)がとツて、宇治河の深きにしづみてンげれば、それはみえざりけり。子共(こども)の頸は、あそこここよりみな尋ねいだされたり。なかに宮の御頸は、年来(としごろ)参りよる人もなければ、見知り参らせたる人もなし。
平家物語・巻四・若宮出家』p334 小学館日本古典文学全集

平家物語といえば、義経、義仲などが平家一族と争う話ですが、その先駆けになったのが、以仁王と源三位頼政による反乱,1180年5月です。ですがこれはあっけなく鎮圧されてしまいます。その勝利の喜びを記したのが上記の部分です。
(1180年2月高倉天皇安徳天皇に譲位。)現天皇の伯父さんを含む五百余人の頸(くび)を太刀、長刀のさきにつらぬき、たかくさしあげて、京都の町を練り歩いたわけですね。優雅を誇る平安の都というものに対してわたしたちが抱いているイメージとは全然違う心性もまたその時代にはあったということなのでしょう。
生首を行列させるのはグロテスク悪趣味に思えますが、その裏側にはもちろん生首が持っている不思議な力、霊力への畏敬といった心性も潜んでいたに違いありません。
わたしたちはたった一つの生首も直視できないほど気弱な文化のなかに生きているわけですが。
2300万人の死者であっても「日本人としての愛国心を発露」というオマジナイさえ唱えておけばそれで悩まずに生きていけるという心性は、頸狩族に比べてどちらが野蛮なのか。
靖国派は自らが余りにも醜いので言及されないのだという可能性もちゃんと計算に入れておけよ。

*1:以仁王 後白河天皇の第三皇子 式子内親王の同母弟 系図では二条天皇高倉天皇に(兄弟として)挟まれている

*2:源三位頼政 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%94%BF