松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「ライファーズ」と加藤三郎さんのお話

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20060401 で取り上げた加藤三郎さん関係。
同コメント欄で、あびさんが告知してくださったとおり『加藤三郎さんが話すイベント』が、大阪府枚方市、京阪枚方市駅近くであるようです。
8月26日 土曜日 ですのでここに再掲します。

『加藤三郎さんが話すイベントです。

【映画「ライファーズ 終身刑を超えて」をめぐって  上映会と話し合い】

日時:2006年8月26日(土)第一部 1時半〜 第二部 3時20分〜

場所:ラポールひらかた(枚方市総合福祉会館) 4F大研修室

内容:第一部 映画「ライファーズ」の上映 1時半〜3時10分
   米国における犯罪後の更生施設「アミティ」の刑務所内プログラムに 参加するライファー  
ズ(終身刑受刑者)たち。なぜ罪を犯すに至ったのか、生育暦にさかのぼる深い自己直面を通して変わっていく彼ら。そのライファーズとの出会いを通じて変わっていく、他の受刑者たち・・。

第二部 加藤三郎さんのお話、パネルディスカッション
                      3時20分〜4時50分
※加藤三郎
67 年から反戦運動に参加し、75-78年にかけて10件の放火・爆破事件を引き起こす。83年逮捕。拘置所生活の中、未決無期囚の飯田博久さんの勧めで、自分の犯した罪と人間関係、成育史などを文章化して捉えなおす作業に入り、自らに直面する中で、深い自己変容を体験。02年12月10日、出所、現在は岐阜県の片田舎の生家に帰り、新しい生活に取り組んでいる。

             〜終了〜

第三部  小グループでの話し合いとまとめ(参加任意)
                       5時05分〜6時半


参加費:  第一部 上映会 800円
       第二部 講演とパネルディスカッション 800円
       通し  1500円

主催:    NPO法人 りりあん
       ホームページ http://love-dugong.net/lilian/

参加申し込み:当日直接来てくださっても構いませんが、人数把握のためできるだけメール・FAX等でりりあんまでお申し込みくだい。

映画「ライファーズ」について
 凶悪犯罪のニュースが流れるたびに「厳罰化を」の合唱が後に続く。だが「どうか自分を殺してくれ、一刻も早く死刑にしてくれ」と望む犯人が登場するにおよんでは、「厳罰化には抑止力がある」という説は、悲しくも絶望的な形で破綻している。
 人はいったいなぜ「殺し殺されたい」とまで望むにいたるのか。
 加害者の非常に多くは、その生育過程のいずれかの時点で、虐待等の被害者であったことは、研究によって明らかにされている。米国における犯罪者の更正施設アミティのプログラムで、参加者たちは、自らの根源にあるこの「被害の体験」にまでさかのぼる。
 被害の体験は、強い屈辱や恥の観念とともに事実であることすら否定され、自ら封印している場合が多い。その抑圧されてきた体験を認め、感じなおし、怒りや悲しみを安全な場「サンクチュアリ」で、適切な方法で表現すること。同じような体験を経てきた「当事者」からの促しや援助・見守りの中で、そのような「被害の語り」を進めていくことは、アミティのプログラムの中でも、とても重要な要素だ。
 被害体験を、その後の加害責任の言い訳にしようというのではない。なぜ、生き生きとした感情や信頼感を自ら封じ込めたまま、生きてきてしまったのか。その根元にある体験にさかのぼり、封印を解こうというのだ。閉じ込められてきた「人間らしい生き生きとした気持ち」が、再び息を吹き返してこそ、参加者は加害の体験についても、ありありと感じなおし、その真の重みを知ることができる。
 映像ジャーナリスト坂上香にとって、アミティの更正プログラムを取材したドキュメンタリー作品は今回が三作目である。今回の作品では、特に終身刑受刑者ライファーズが、他の受刑者に与える影響に焦点をあて、セラピューティック・コミュニティ(治療共同体)における「当事者」の役割に深く注目している。

なぜ加藤三郎なのか
加藤三郎もまた、自らの犯した罪を徹底的に見つめなおす中で、深い自己直面を通して再生した「当事者」のひとりだ。しかも、彼が拘置所の中で、そのような自己直面の作業を進めていったのは、未決無期囚の飯田博久との手紙での交流に触発されてのものだった。
 残念ながら日本ではまだアミティのような活動はほとんどない。が、いわばライファーである飯田と、加藤の間では、まさしく「当事者」によるセラピューティック・コミュニティが生まれたのだとは、言えないだろうか。
映画「ライファーズ」の上映、そこに映し出されるアミティの活動と、「当事者」のひとり加藤三郎の話はどのように響きあうことだろうか。そしてまたこの出会いを通して私たちのひとりひとりは、どのようにして自己自身に出会い直すことだろうか。
果たして私たち自身は、虐待や共感疎外をもたらす「はなはだしい苦しみ」と無縁の人間だろうか? それとも私たちもまた「当事者」なのであろうか?    あび(「あびの万華鏡」 http://plaza.rakuten.co.jp/abhiabhi/ )』