松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

家族を捨てよ?

大ぜいの群衆がついてきたので、イエスは彼らの方に向いて言われた、「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命まで捨てて、わたしのもとへ来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。自分の十字架を負うてわたしについて来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。
(ルカ14.25)

 自分の妻や子を捨てるというのは、わたしたちの生の自然に反することのような気がする。というより以前に、わたしたちは家族から生まれ家族を再編し家族のなかで死んでいくというパラダイムを前提として生きている。現在結婚しない男女が増えているがそれでも新しいパラダイムは形成されていない。「家庭の幸福は諸悪の元」といったのは太宰治である。彼の死から半世紀、「家庭の幸福」は肥大するばかりである。
 わたしが私であることの根元を、家族などというものが支えてくれるわけでないのは当然である。しかし家族や国家、会社や名誉を切り捨てて、虚無を友として生きるべきなのか。わたしはそうだと思う。
 一匹の猫だろうと、一人の筋肉隆々たる男性であろうと、問題は同じである。〈愛〉、である。愛とは、義務や惰性を控除したときにはじめて可能性を持つあえかなものである。*1
 おそらく宗教の立場とはそうしたものであろう。わたしは宗教に本質的興味はないのだが、“家族や国家、会社や名誉の放棄”というテーマについては持続的に自分のものとして考え続けたい。
追記:“自己としての自己やパソコン〜ネットに依存している自己”の放棄、という課題の方がわたしにとって切実であり困難である。

*1:そうすると子育てや家族の継続には義務や惰性がむしろ大事だということになる。