松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

境界(きょうがい)を、離れるべきなり。

 或る人明禅法印にたづね申して云う、非人法師はいかなる所にか住(すま)すべく候らん。仰(おほせて)云う、念仏だに申されば、いかなる所にてもありなん。念仏のさはりとならん所ぞ、あしかるべき。但し、境界(きょうがい)をば、はなるべきなり。
(『一言芳談』19章 p48 isbn:4393331656

 『一言芳談』は13世紀、親鸞かそのちょっと後くらいに書かれたのだろうか。そのころは法然親鸞のようなドロップアウトしたインテリからただの乞食坊主まで正規の僧侶ではないが宗教的な人たちがたくさんうろうろしていたようだ。うろうろといっても働きもしないのだからしばらく見ないなと思っていたら死んでいた、みたいな。ここで「非人法師」とはそうした人のこと。非人法師はどういう所に住むべきか?何処でも良い。「念仏のさまたげになるような所はよくないでしょう。ただ、自分の境遇や環境からははなれなければなりません。*1
 「境界(きょうがい)を、離れるべきなり。」というフレーズは大事なことを示唆している。自己は自己保存的になりがちであるが、その傾向を放置するとその腐臭に気づけなくなる。惰性としての自己を常に否定すべきだ、と私は思う。

*1:p47 大橋俊夫氏による訳