松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

私の「懺悔」

真宗大谷派「不戦決議」
http://d.hatena.ne.jp/nappa2914/20060401#1144129566
上記にありました。参考まで。

 私たちは過去において、大日本帝国の名の下に、世界の人々、とりわけアジア諸国の人たちに、言語に絶する惨禍をもたらし、佛法の名を借りて、将来ある青年たちを死地に赴かしめ、言いしれぬ苦難を強いたことを、深く懺悔するものであります。

 私自身懺悔するのかどうか考えてみた。アジア諸国の人たちに、言語に絶する惨禍をもたらした。それは事実だ。深く反省すべきだろう。ただそれだけでは私にとってはどこか他人事である。「佛法の名を借りて」というところがポイントだと思う。私も私の先祖も仏教に縁がほとんどない。だから「佛法」に換えて、「アジアの大義の名を借りて」、とか「近代の超克の名を借りて」、とか言い直して考えてみる。すると戦後の思想や政治思想が「アジアの大義」や「近代の超克」を本当に克服できたのかという問いが現れる。答えはノーだろう。この辺を(サイードなどの力を借りつつ)まじめに考えるなら、鬼畜米英と戦うことに幾分かの大義があると信じようとして死んでいった者たちに対し、イラク戦争支持なんて恥ずかしくて言えないはずだ。きれいに展開できていないが、かって「佛法の名を借り」たのと同じように今も「佛法の名を借り」るという薄らみっともない自己欺瞞に、わたし自身が荷担している。と残念ながら言えるように思う。わたしが懺悔しなければならないとすればそのことについてだろう。(4/6記)