松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

立止って空を見上げる

やがて、人々も気づくだろう。自分達の内にある秩序について。そして恐らく、立止って空を見上げる。そこに布告されている戒厳令を、
    (別役実のシナリオ『戒厳令 伝説・北一輝』より)
http://d.hatena.ne.jp/kuronekobousyu/20060324/p1

空を見上げる、とは〈垂直性〉が自己の背骨を貫いていることにいまさら気が付くということだろう。
この〈垂直性〉とは朱子のいう「性即理」と同じであると理解してよい。朱子においてはこの垂直性は、宗教的(に近い)境地によって得られる自己一個のものであった。しかし、明代の陽明学においては、「満街聖人」という街中の人が本来的に聖人であるとする主張があらわれる。
国家権力や煩瑣な法律などはすべて本来不必要なものだというアナキズムは、東洋思想を一皮むけばほとんど出てくるものである。ファシズムや近代天皇制どころか、〈堯と舜〉の時代にさかのぼるナイーヴなアナキズムが、それから最も遠い皇軍という暴力装置と結合したという奇跡。
226事件とはそうした事件だったのだろうか?*1

*1:美しく危険な誘惑を感じますが、北一輝のそれとはやはりだいぶ違うような気がします。と野原は書いたので、違うという面があるのは確かだが。