松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

腐敗糾弾しないで帝国の繁栄はあり得ない

学校と試験制度の間には微妙な敵対関係がある。
p196 『儒教とは何か』isbn:4121009894

 公立中学校においては内申書重視という方針があって学校が重視される。しかし、大学入試にはそんなものはないので、高校学校において学校は軽視されると。(わたしは学校*1なんてものはだるいだけのものであり入試にさえ通ればいいのだ、という偏った考え方の持ち主のようだ。)
 ところで、中国は秦の時代から中央集権帝国だが、現在のように個々人を直接国家が支配していたわけではない。
大共同体:諸侯・王のような、小独立国家のような
中共同体:一門一党を率いる名門・土豪・大地主のような
小共同体:同姓一族の団結を誇る家族のような  (cfp116 同書)
といった様々な共同体があり、それらとの戦いと妥協のなかで帝国は運営されていた。で、もちろん、かっての中国は科挙という選抜制度が国家の柱だった。科挙官僚だけが共同体ではなく、皇帝に忠誠を誓うものだからだ。天や理という超越的原理は共同体を超えた皇帝への忠誠に他ならない。即ち、家族郷党のために自分の左右できる利権をささげるのはなく、そうした腐敗を糾弾し天下国家の為という大義を身体化している人間が求められた。
 ところで日本は小さな国なので、同じ「天皇への忠誠」が上記の二重の意味を孕むことになった。つまり既成組織や会社がたまたま獲得した既得権益や利権に対する忠誠と、それを腐敗として糾弾する超越への忠誠の二つを。おそらく愛国心が好きで、中学生とかに君が代を歌わせたいと考える人たちは、後者の忠誠を獲得したいのだろう(建前では)。しかしながらそれは逆であり、先生や上司に対する奴隷的態度を教え込むことは、国家を腐敗だらけの奴隷国家にする事であり、帝国の繁栄に反する。

*1:職場も? げげ