松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

君子は争うところなし。

子曰。君子無所爭。必也射乎。揖讓而升。下而飮。其爭也君子。
子曰く、君子は争うところなし。必ずや射(しゃ)か。揖譲(ゆうじょう)して升(のぼ)り、下(くだ)りて飲む。その争いや君子なり。
(03-07)
* 揖譲(ゆうじょう)して升(のぼ)り、下(くだ)りて飲む … 新注の訓み方。なお、『儀礼』の鄭玄の注では「揖讓而升下」で句切っているので、「揖譲(ゆうじょう)して升下(しょうか)し、而(しこう)して飲ましむ」と訓むこともできる。
http://kanbun.info/keibu/rongo03.html  論語:八佾第三(Web漢文大系)

さて君子は争うべきではないのか。そんなことはなかろう。

顔淵編に克己復礼という言葉があるが、己に克って礼に復(かえ)るということも、結局一つの争いである。(略)されば徳を修めて立派な人になろうとするには、始終争いを避けるわけにはゆかぬ。(渋沢栄一論語講義』二松学舎大学出版部)p109

克己復礼という目的が正しいかどうかは分からないが、一般に自己の完成を目指す思想においては始終争いを避けるわけにはいかない。ましてや正義というようなことを考えるとなおさらだ。
「君子と雖も正々堂々の争いは絶対にこれをなさずといふべからず。(同上)p108」

 これを要するに、我が正しきを他より曲げんとするもの、我が信ずる所を外より屈せんとする者あらば、断々乎としてこれと争ふと同時に、一面気永く時期の到来を待つ忍耐もなければならぬ。(同上p112)

 というわけで、論語には確かに「君子は争うところなし」と書いてあるが、絶対に争うな!という教えでもなかろうという、当たり前と言えばこれ以上当たり前のことはない話です。
 えーと、突然論語を引用したのはたまたま渋沢栄一の分厚い本を図書館から借りてきて読み始めていたという以外に他意はありません。
 で、落ち着いて考えてみても、「争うこと自体を全面的に忌避することに帰結する思想ではないか?、上記閲覧者さんの数行が」という疑問は消えません。
(2/4朝5時)
(ちなみに、仁斎は「他人と争う人はみな小人で、不仁、不礼の極である」という意見。p84日本の名著)