松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

〈私という根拠〉

(1)

 現実という物のすべては〈私という根拠〉によって成立している。〈私=私〉とは、根拠を疑わないという無自覚な立入禁止である。つまりそれは〈他者〉を積極的に排除することによって成立している。

 さて仮にそうであるとしたら、デリダ=高橋の言う“他者の歓待”とは何だろう。

話を戻して違法性の評価に関してだが、まず「他者の歓待」とか言う人がたはその他者が扉をぶち割って侵入して家族を一寸刻み五分試しにしながら「これが私の政治的思想の表現なのだうはははは」と高笑いしていてもその他者を歓待して刑事責任を問わないと、そう断言されるのであろうかと聞こうかと思いつつ「はいそうですが何か?」としれっと言われたらどうしようと恐れていたところ、
http://alicia.zive.net/weblog/t-ohya/archives/000268.html

 おおやさんは反動として意見を構成している。つまり受忍できない他者と受忍できる他者がいる、にもかかわらず「進歩派諸君」は他者という名で前者を見ない振りをすることにより大衆を誤導している。みたいなのが議論の骨格だ。12月24日「他者の歓待」の主張は「生活保守主義」への居直りであるがそれは、冒頭に書いた“他者を排除しない自己などありえない”というテーゼを「進歩派諸君」に突きつけるという攻撃的なスタイルを取る。
 「家族を加害する他者」をも歓待するべきか?これに対する常識的な答えは加害者とは戦う、戦うというがその場合の〈歓待〉の方法だ、というものだろう。これについては松下昇の「機動隊*1を歓待する」という方法論が参考になる。

我々が創り出しうる最も深い情況に我々自身が存在すること、そのことによって引き寄せられて来る一切のテーマが自主講座運動のテーマであるし、その時やって来る全ての人間が自主講座運動の参加者になるわけです。(略)
そして様々な力関係でこの部屋ならこの部屋に問題が殺到してきます。反論や退去命令や機動隊導入など。その様な変化がそれ自身、持続的体系的な自主講座のテーマに合流するのです。そこにはじめて、学ぶことの怖しさが何重にも予感されてきます。
http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/jishukoza.html わたしの自主講座運動

(2)
 しかし逆に考えるならばわたしたちは他者に侵されながら生きている。宅配ピザやデリヘル以上に、私たちを侵している物は言葉とイメージだろう。テレビなどで膨大に流されているのは、消費への欲望という身体を形成しなければならないという命令である。「「進歩的じゃない!」とか言っていればみんな畏れ入ってひれふした時代じゃないんだからさあ、(ohya)」という言説は、「進歩派諸君」はこの至上命令に違反しているぞ気を付けなさいよというやさしい警告にほかならない。
 しかしながらわたしたちは“人の言葉で戦い、人の言葉で欲望し、人の言葉で死ぬ”ことに満足できない。*2

それと同時に、我々自身の表現の根拠、我々自身が表現するときの根拠をも含めて変革しないかぎり、何一つ始まらないだろうし、それは古い形の階級闘争に還元されてしまうと思います。いいかえると、闘争過程において自分がどのような言葉をつくり出したか、どのような言葉にひかれて、それをになってきたかという問題です。常に人の言葉で戦い、人の言葉で死ぬということは、本当に戦うこと、死ぬことになり得ないと思います。ですから、先程もいいましたように、情況にとって最も必然的なスローガンと同時に、自分にとって最も必然的なスローガンを作り出さないかぎり、本当には戦えないし、戦いを永続化できないでしょう。ということは、自分をそのように表現させる世界の根拠を、自分が叫び声をたてざるを得ない根拠というものを徹底的に追求することであって、それは政治という領域をはるかに超えた行為だと思うのです。そして、それこそが真の政治性のはじまりでしょう。
(同上)

(3)
わたしたちはどこに立ち何を求めているか?わたしたちは貨幣と欲望以外の何を価値として生きていくのか? わたしたちのすべてはこうした69年性の問いかけに自己の核心を問われている。いわば、庶民において存在が露呈してきているのが21世紀という情況であろう。
貨幣あるいは国家という万能性に託しておけば何とかなるという時代は終わった。
 ということは「自分をそのように表現させる世界の根拠を、自分が叫び声をたてざるを得ない根拠というものを徹底的に追求すること」という別の命令に従うということだ。
「自分が叫び声をたてざるを得ない」とは例えば残業命令である。業務の目的が時間内に達成できなかった以上残業せざるを得ない。業務の目的が不当かどうかという議論は有害無益である。さて。とりあえずそこで問われているのは「古い形の階級闘争」である。残業が不可避ならするのはやぶさかじゃない、但し125パーセントの賃金を払えばだ。後者の条件を曖昧にして前者だけが強調される問題は、理論的には「古い形の階級闘争」で片が付くはずだ。しかしながらたかが数千円の残業手当のために闘争を開始するとそこにはたちまち私の人生を掛けなければいけない。そこでどうしても「自分が叫び声をたてざるを得ない根拠というものを徹底的に追求する」という途に入って行かざるをえない。
 現実という物のすべては〈私という根拠〉によって成立している。生きる過程において自分がどのような言葉をつくり出したか、という問いとして〈私〉は記述しうる。それでも奴隷であり続けたい人が多いのは何故だろう?

*1:私たちが所有している最大の暴力、いやそうでもないか。

*2:国のために死ぬ、ことに価値を見出す人もいるようだが馬鹿だと思う