松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

新しい野蛮状態!

 何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代りに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか?*1

 21世紀に入ったいま、おそらく世界中の人々の多くがこの問いを、(再度)強く問いかけざるを得ない時代になっている。


 カントによれば、啓蒙とは「他人の指導を受けなければ自分の悟性を使用できないような状態」から抜け出すことである。*2
(悟性は、感性に与えられる素材を自己の形式(範疇)にしたがって整理し、認識を成立させる。
理性は、悟性作用を統一し体系に纏め上げる。)
つまり、理性というものは体系の正しさ無しには成立しえない。カントにとっては自然科学(ニュートンなど)の勝利が体系の正しさを保証したと考えられた。しかし自然科学以外の領域では万人の認める体系は、いまだすんなりとは成立していない。

カントの概念は二重の意味を持っている。超越論的・超個人的自我として、理性は人間どうしの自由な共同生活という理念を含んでいる。その共同生活のうちで、人間は普遍的な主体として自己を組織し、純粋理性と経験的理性の間の矛盾を、全体の意識的連帯のうちに止揚する。そういう共同生活は真の普遍性の理念、つまりユートピアを表明している。
しかしそれと同時に理性は、計算的思考の法廷を形づくる。計算的思考は、自己保存という目的に合せて世界を調整し、対象をたんなる感覚の素材から隷従の素材へとしつらえる以外にいかなる機能をも知らない。一般的なものと特殊的なもの、概念と個別的事例とを外側から相互に一致させる図式論の本性は、つまるところ現行の科学のうちでは産業社会の利害に他ならないことが証明される。存在は、加工と管理という相の下で眺められる。一切は反復と代替の可能なプロセスに、体系の概念的モデルのためのたんなる事例になる。動物はいうまでもなく、個々の人間もまたその例外ではない。管理を旨とし物象化を事とする科学と個々人の経験の間の葛藤、公共精神と個々人の経験の問の葛藤は、環境によって予防されている。もろもろの感覚は、知覚が生じるよりも前に、いつもすでに概念装置によって規定されている。
p130-131*3

 理性は素材を体系に纏め上げる能力であるから、体系という視点から見て見えにくい部分は無視し勝ちになる。
 一般的なものと特殊的なものとの同一性は「純粋悟性の図式」によって保証されている、とカントは考えた。しかしながら保証が必要だったからそうなっているにすぎなかろう。わたしたちの社会では「存在は、加工と管理という相の下で眺められる。一切は反復と代替の可能なプロセスに、体系の概念的モデルのためのたんなる事例になる。」学校や工場や事務所は加工と管理のシステムである。生きることを点数や金額という数bitの数字に変えてくれる。
 「その共同生活のうちで、人間は普遍的な主体として自己を組織し、純粋理性と経験的理性の間の矛盾を、全体の意識的連帯のうちに止揚する。そういう共同生活は真の普遍性の理念、つまりユートピアを表明している。」
 「理念」や「ユートピア」という言葉はいまは流行らないのですが、それはそれをある既知を延長した平面に存在しうるものと矮小化して考えてしまったからではないか。そうではなく既知の平面を離れた垂直性のベクトルとしてなら〈ユートピア〉は非在の輝きをかいま見せるのではないかと思われた。

*1:序文『啓蒙の弁証法

*2:参考p127『啓蒙の弁証法

*3:啓蒙の弁証法』ホルクハイマー・アドルノisbn:4000040545