松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

ただし〈松下 昇〉の全表現の中に、大学闘争というよりは〈 〉闘争過程ないし、それを不可避とする情況に現れた基本的な概念が全て含まれていると仮定してもよいのではないか。いや、あえて仮定すぺきではないか。

松下たちが行ってきた現実の闘争過程が産みだしてきた言葉たちを、あえて「概念」という古くさい言葉で概括しようとした。なぜそうした試みが行われようとするのか?
松下たちが行ってきた現実の闘争過程と言われるものがあったとして、それがなにかしら〈新しい〉質を持った物であったとしたら、読者としてのわたしが理解しないものとしてその〈新しさ〉が定義されているとすれば、わたしたちは「現実の闘争過程」を「現実の闘争過程」としては理解することはできない。権利としてできない。

哲学のタームとしては、哲学者によって定義に違いがあるが、一般的に言うと、語の意味の抽象的で形式的な本質的部分をさす。すなわち、その語がその対象に適用されるかどうかを決める最低限の形式的規定であり、その語のさまざまな使用のなかでつねに共有される基礎的な意味内容の形式的特徴。語の意味が反省され、その本質的で偶発的でない恒常的な部分が抽象されたとき、これを概念と呼ぶ。
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松下は求心的/遠心的という対概念を好んだが、概念という概念は求心的なもののようだ。「基礎的」とか「偶発的でない恒常的な」とかいう形容詞に秩序=同一性への親和を嗅ぎ取り反発してみせる、というのが左翼学生の感受性であったとして、松下はそれとは遠い所にいる。