松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

被害者の名誉回復

上記のように、合祀の大義が何処にあったのか、を問おうとするのはミスリードかも知れない。
http://d.hatena.ne.jp/nachin7/20051109 には
2005年11月09日(水)の東京新聞記事「靖国神社A級戦犯合祀」が引用されている。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/kakushin/20051031/mng_____kakushin000.shtml
要点だけメモする。
(1)
66年2月 旧厚生省(現厚生労働省)が刑死するなどしたA級戦犯の「祭神名票」を神社側に送った。

その背景:
 旧厚生省援護局は、旧陸軍省と旧海軍省の流れをくむ第一、第二復員省がルーツだ。
ここに戦後間もない四五年十二月から六三年三月まで在籍し、強い影響力を行使したのが、終戦時の阿南惟幾(あなみ・これちか)陸相の高級副官を務めた故美山(みやま)要蔵氏だった。
戦時中、美山氏は靖国への合祀を決める責任者だった。
(2)
 神社側は七〇年、東条内閣で大東亜相を務めた総代の青木一男参院議員(当時、故人)に「東京裁判の結果を受け入れることになる」と迫られるなどし、合祀を決めたとされる。
(3)
時期については「宮司預かり」とされ、旧皇族山階宮家出身の故筑波藤麿宮司は在任中に合祀しなかった。
 それが七八年、一転して合祀に踏み切るのは、筑波氏が亡くなり、後任に故松平永芳宮司が就任してからだ。元海軍少佐で、陸上自衛隊に勤務した松平氏も元職業軍人。義父は、インドネシアでのオランダ軍事法廷で死刑とされた醍醐忠重海軍中将だった。

結論として東京新聞は「こうしてみると、東条氏らの合祀は、戦犯の名誉回復を望む、旧日本軍や大日本帝国の色濃い人々のリレーで進んだことが分かる。」と述べる。
例えば、“わたしは本来庶民ではなく恥じるべき出自などもっていない。だのに戦犯の娘と呼ばれ屈辱を味わった。なんとしても被害者の名誉を回復したい”、という怨念からのひたすらな一念がそこにはあったのだろうか。戦犯とよばれた人がリードした戦争が巨大な災厄をもたらしたことへの責任というものは彼らには存在しない。<皇祖皇宗>も戦争それ自体も存在しない。ただ被害者意識があるだけ。
日本人の同情を獲得できてよかったね!