松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

内田樹の靖国問題

内田樹靖国問題について書いた新聞記事を、友人がコピーしてくれたので読んでみた。*1
彼は「死者は言葉を持たない」と強調する。それを強調するのは正しい。

共同体をめぐるほとんどの対立は「死者のために/死者に代わって」何をなすべきかを「私は知っている」と主張する人々の間で交わされている。

しかし、靖国問題とは、死者の正しい服喪はどうあるべきか?という問題だったのだろうか。個々の戦死者たちはすでに親族によってそれぞれの墓に祀られている。死後の霊はその墓の近くにいると考えても良い、と篤胤も言っている。東京大空襲の死者たちはどんな国家的祭祀も受けていないけれども、“戻ってきて災いをなす”ことなどできていない。
靖国問題には二つの歴史的位相があり、新しい位相はA級戦犯合祀で画される。がやおきのりの路線にも反する後者は、戦前の軍国主義一切を免罪しようとする極右勢力によって為された。“国のために死ぬことは名誉だ”として押し進められた戦争への動員(による死)は、英霊として讃えられるべきだという思想。「先の戦争」は間違っていたのかどうか、という問いに答えられず、間違っていたと答えない方向にしか向うことができない哀れな日本は、彼らの極右思想が作り上げた現在である。
このように靖国とは死者を過剰に国家が取り込む装置である。しかし、内田はそのようには見ない。靖国で行われているのは極めて特殊な形での「服喪」であるのにそれを、服喪一般に拡散させて論じているからだ。

*1:2005.8.30朝日新聞夕刊「生者は儀礼決められぬ−−言葉を持たない死者に権利」