松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

死体を踏んで

ニューヨーク・タイムズ』のウオーレン・モスコウ記者は45年3月29日付で、「渡嘉敷の集団自決」の見出しで次のように報じた。
(略)
われわれは朝まで待つことにした。その間人間とは思えない声と手榴弾が続いた。ようやく朝方になって、小川に近い狭い谷間に入った。すると「オーマイガッド」何ということだろう。そこは死者と死を急ぐ者たちの修羅場だった。この世で目にした最も痛ましい光景だった。ただ聞こえてくるのは瀕死の子供たちの泣き声だけであった。
 そこには200人ほど(注・Gリポートには250人とある)の人がいた。そのうちおよそ150人が死亡、死亡者の中に6人の日本兵がいた。死体は三つの小川の上に束になって転がっていた。われわれは死体を踏んで歩かざるを得ないほどだった。およそ40人は手榴弾で死んだのであろう。周囲には、不発弾が散乱し、胸に手榴弾を抱えて死んでいる者もいた。木の根元には、首を締められ死んでいる一家族が毛布に包まれ転がっていた。(略)
 小さな少年が後頭部をV字型にざっくり割られたまま歩いていた。軍医は「この子は助かる見込みはない。今にもショック死するだろう」と言った。まったく狂気の沙汰だ。
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/byakuya/334.htm

確かに原爆はさらに大きな悲惨だったかもしれない。だが、日本軍が日本人を死に追いやり、親が子を殺したことの悲惨は語りようもない。
<憎悪>をとぎすまし持続しなければならない、と私は考える。