松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

投稿者も高齢化で段々と消えて行きます。

 わたしは下記の文章を引用したいと思ったのだ。わたしはほんの少しの活字を通して「大トア戦争(アジア太平洋戦争)」の体験談を読んだりした。ネット右翼の人たちはそうした体験談を読まないかそれとも読んでも無視して、自分の観念のなかの薄っぺらな戦争観だけで語り続けるのだろう。無惨である。

http://www.geocities.jp/sato1922jp/tyugoku.htm#rappu
拉 夫(らっぷ)

                須賀川市 S
野戦で兵隊が毎日持ち運ぶものは、兵器の外に食料品、調味料、医薬品、アゴを出した兵の装具などで各人が持つ量は莫大なものだ。
行軍中、小休止の時に腰を下ろすと出発の時には誰かに起こして貰はなくては立てない程の重さである。
そこで現地人を強制徴発して物を運ばせることになる。彼等には賃金は勿論生命の保証も与えられていない。これが拉夫(らっぷ)と言われる苦力である。

綺麗な小川があって故郷を思わせる谷底に一つの町が有った。この町を占領するには大分苦戦をしたそうだ。この小川をしばらく遡って行くと小高い所に部落があって我々はここに宿営した。この辺は既に警備地区になっていて戦場ではないから無茶な真似をすると憲兵に捕まるが、通過部隊はその場かぎりなので兎角出鱈目をやる。
途中からひっぱって来た牛を殺して皆でたらふく食べて一夜を明かしたが、いざ出発になるとどうも荷物が多過ぎる。牛は食ってしまったので積むわけには行かない。
兵は毎日の行軍でアゴを出しているから余計なものは紙一枚だって持てない。ぎりぎりのところまで持っているのだからどうしょうもない。あの頃は10日分位の食料を持っていたと思う。
野戦馴れしているヒゲ軍曹が何処かに出かけて、天秤に野菜を一杯担いだニーコ(中国人)を二人連れて来た。野菜を買ってやるからと騙して町から連れて来たのだそうだ。彼等が喜んでついて来たのが運のつきで、野菜も籠もおまけに自分迄徴発されてしまった。泣きわめく彼等に有無を言わせず、いろんな荷物を天秤に担がせて出発した。
実直な農夫で今日一日仕事をするから明日は帰してくれとヒゲ軍曹に哀願する。軍曹は馴れたもので、「好好、明天回去(よしよし明日帰す)」とか何とか誤魔化してしまう。
なんとこれが道県の町に着く迄、十何日も重い荷を運ばされてしまったのだ。
(略)
彼等の名前なんか誰も呼ばず、一様にクリー(苦力)と呼ぶ。夜は逃げられないように部屋に閉じ込め、便所に行くにも銃剣を突きつけて監視する。
行軍中は天秤と首を細引で繋いでおく。強行軍について歩けないと殴られる。
歳をとっている私ら補充兵は割合苦力をいたわった。それで私らはすぐ苦力と仲良しになってしまった。
古参兵は随分と残虐な真似をする。これについては書かないことにする。

兵は夜寝るのに毛布や天幕、雨外套などがあって服装もちゃんとしているので良いが、苦力は野菜売りに出たままの姿だから、寒くてたまらないようだ。不寝番に立って彼等の寝ている所に行ったら、海老のように曲がって、ふたり身体を寄せ合ってガタガタ震えていた。
(後略)

 日本軍は8年間も中国大陸で何をしていたのか。糧秣の現地補給というが、たった一匹の牛を失うことが農民にとってどういうことか、わたしよりも当時の皇軍兵士の大部分にはよく分かっただろう。ネット右翼の皆さんも「自衛戦争」なんて無惨なことを言わずによく考えてもらいたい。