松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

小骨派ブログ宣言

学ぶとは、例えて言うならば「小骨がのどに刺さった」状態が続くことです。わからない、だから、わかりたい。この思いがどこかにひっかかっていると、人間は無意識のうちに「わかる」ために役立ちそうな情報に反応し、集めるようになります。ちょうど、小骨を溶かすために唾液の“強度”が上がっていくみたいな感じ。
内田樹*1

 このブログは引用が多い。上記を読んで良い言い訳を見つけたと思った。わたしはわたしにとって“ひっかかる”異和感を感じる小骨を集めているのだ。普通ひとは自分が好きな自分に身近な文章を集める、だから解説も的確で分かりやすく安心して読める。うちのブログはその反対なので、自分でもどうコメントして良いか分からず、まして読者はどう読んでいいのかとまどう。(すいません)(まあそうではない引用もあるが)
 最近では「三大考」というテキストがまさにそれで、どのような地平で受け取るべきか分からない。まあその分からなさを楽しんでいるのだ、とも云えるが、どちらかというと“小骨”であり異和感を持続的に感じているのだ。
 「8人の小人」という短い算数の問題を5/8にUPしたときもそうだった。その問題の問題性をわたしが汲み尽くしていないことがはっきり分かり、かなり苦労した。11/13の「囚人の帽子」のときもそうでしたが、数学の問題の場合、“小骨”に出会い易い。数学以外だと突っ込まれても、おそらくその論理を構成している言葉の意味を少しづつ変えたりしていくことにより、自己の破綻を(かならず)回避してしまうものなのかもしれない。
 (読者には迷惑でしょうが)これからも“小骨派”ブログとして精進していきたいものです。

*1:学び1 朝日新聞20050530