松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「存在」っていったい何?

 存在とは、being,Sein,etre,esse(アクサン省略)であり、「あること」である 。だがそれでは何のことか分からない。
「その本性が存在するとしか考えられないもの」からスピノザの『エチカ』は始まっている。「(あるものが)あるかないか」は単純な問題で、哲学の問題ではないとわたしは思ってしまうがそうではなく、それこそが哲学なのだ。どういうことなのか、分からない。
 八木雄二『中世哲学への招待』isbn:4582850693は、西欧人は(日本人を含む)アジア人とはまったく違った感じ方考え方を根源的にしているのだ、ということを解説しており、とても興味深い本だった。
その本のp88-89に次のような部分がある。長いが引用する。
 でも結局分からないのだが。

 さてアンセルムスは、神の存在証明をつぎのように始める。すなわち、まず「それより大いなるものが考えられないもの」という概念を知性のうちに構成する。この概念が実在のうちに対応物をもつかどうかは、まずは考えの外である。そしてこの概念について考えてみる。アンセルムスによれば、神を信じない愚か者だろうと、この概念を考える知性はもっていると言う。そしてかれによれば、単なる概念としての存在は、知性のなかにしかないのだから、知性のなかに在ってなおかつ知性の外にも在るものの方が「より大いなるもの」であると言う。言い換えると、存在するという完全性の点で、知性のなかにしかないものより、知性のなかにも外にも(すなわち、両側で)存在するものの方が、優秀である、ということである。アンセルムスは、このことは客観的事実、言い換えれば学問的に認められる事実だと考えている。
「現実にも存在するものの方が、わたしたちが考えているだけのものより優れている」というこの観念は、たぶん日本人にはなじみがない。仏教的無の観念からすれば、優秀さの問題と存在の問題は無関係である。実際、在った方がいいものと同じく、無い方がいいものも世の中にはたくさんある。非存在より存在を有意義と見るヨーロッパ精神のもつ傾向は、やはり歴史的なものだと言うべきである。
 プラトンの場合も、善(最高価値)は存在を超えるが、存在と近縁な関係にあることは間違いない。この関係は、かれより二世代から三世代ほど先に生きて、古代ギリシア哲学に論理の力を見せつけたパルメニデスから受け継いだ「存在と論理の一致」の思想と関係するし、キリスト教の場合「神が世界を創造したし、現在も創造し続けている」という観念と関係していて、何が理由とも言い切れない。しかし、存在にこそ意義があって、非存在には意義がない、という思想は、ヨーロッパの思想に一般的な原理である。この思想を真っ向から否定した思想家はヨーロッパにはいない、と言ってもいい。プラトンと対比されるアリストテレスも、アンセルムスの証明を否定したトマスも、この点では一致しているのである。
 それゆえ、ヨーロッパの歴史に敬意を表することにしよう。つまりこの原理を認めて、単なる概念よりも実在もするものの方が「より大いなるもの」であるとするならば、一挙に、つぎの結論が出てくる。「それより大いなるものが考えられないもの」は、確かに、「実在する」。
 なぜなら、もしもそれが実在しないと考えられるなら、実在する、と考えられたものの方が「より大いなるもの」だからである。そして「実在する」と考えられたもの、そのように理解されたものは、わたしたちが普段、周囲に在るものについて「実在する」と理解しているように、現実に実在する、と言うほかないものである。こうして、「より大いなるものが考えられ
ないもの」は、考えられるだけではなく、実際に存在する、と結論され、神の存在証明が終わる。
p88-89 八木雄二『中世哲学への招待』

 この証明を概念から実在への「飛躍」と見るかどうかは、「存在と論理の一致」をどこまで認めるかにかかっている。「存在の有意義性」の方は、すでに述べてきたように西欧一般に認められた存在の価値観として西欧内部では問題にされない。だから知性のなかで考えたことがどこまで実在と一致するかは、もう一つの問題なのである。
p90 八木雄二『中世哲学への招待』