松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

生きて虜囚の辱めを受けず

 従軍慰安婦テーマについてなどまとめたいを思いながらうまくいきません・・・
 さて今回は、「大東亜戦争」の一こまを扱う。
http://www.iwojima.jp/data/data2.html 硫黄島戦の経過
から抜き書きすれば、

1944.7.7 サイパン島玉砕。南雲忠一海軍中将以下約4万名、在留邦人約1万名が戦没。(人数には諸説あり)
8.3 テニアン島玉砕。角田覚治海軍中将以下約5000名、在留邦人約3500名が戦没。
8.10 グアム島玉砕。小畑英良陸軍中将以下19,135名戦死。米軍はマリアナ諸島を手中にしたことで、本土空襲の拠点を確保。途中にある日本の航空基地は硫黄島だけとなる。

別の本の巻末にマリアナ攻防戦関係年表がついていた。グアム島についての最後の処だけ抜き書きしてみよう。

1944.8.10 
●小畑軍司令官、天皇大本営に宛てて訣別電報打電。グアムとの連絡途絶。
1944.8.11 
●小畑軍司令官、又木山で自決。日本軍の組織的戦闘終わる。
●この後、日本兵、小グループに分かれ、密林内で終戦まで抵抗を続ける。
●武田参謀、10月末時点での日本軍の残存兵力を2500名と推定。
●1945年9月4日、武田参謀を長とする日本軍降伏。生還者1250名。
●戦闘開始時のグアム島の日本軍2万810名、戦死1万9135名。
グアム島攻略の米艦船600隻、飛行機2000機。上陸した米軍5万4891名。戦死1290名。戦傷5648名。
(p445『私は玉砕しなかった』横田正平 中公文庫isbn:4122034795

 まず、戦死者の数を比べると、米軍1,290 に対し皇軍19,135 と約15倍になっている。15:1といえばもはや戦争ではなく一方的虐殺に近い。実際は虐殺というイメージとも違う。日本軍は食糧もなく武器も少なく早い時期に戦闘能力といえるほどのものを失っていた。しかしながら、皇軍には悪名高き「生きて虜囚の辱めを受けず」という命令(戦陣訓)があり、飢えてよろよろになりながらも降伏することができなかった。戦争シミュレーションゲームでは糧秣を取られたら次のターンで戦闘は終わる。しかしグアム島の場合、死ぬ以外のゲームオーバーは許されていなかった。7.25に組織戦闘力の大部を失い、7.28に高品師団長戦死、そして8.11小畑軍司令官自決となっても、とにかく終わる方法がないので、生きている限り闘い続けなくてはならない。約二千五百人がジャングルの中で生きのびようとした。一年間経ち半数が生還した。最後に餓死または病死していった千人は、天皇陛下の為に死んだといえるのだろうか。戦争で敵から殺されるのは仕方がない。しかしジャングルをはいずり回ったあげくに餓死するなんてことまでしなければならないとは天皇陛下も想定しなかったはずだ。いくら最終戦争ををうたおうがそれは目的のレベルの話であり、戦争というのはやはり有限性のゲームでしかないはずだ。「生きて虜囚の辱めを受けず」という命令は、近代国家の誇り(自らの国は自らで守る)え根底的に支えられるべき軍というものを、全体主義的宗教性に支配されたそれに変質させる。
 餓死または病死していった千人が肯定されるなら、生還者l250名は何処に生還したのだろうか。日本が負けることはありえない、そういう理屈の中で彼らは死んでいったはずだ。日本は継続している、天皇すら代わらずに。それでも、「彼らは日本のために死んでいった」と言いつのるのか。一度滅んでから出直してこい。
 わたしたちは戦後平和国家になったので、「生きて虜囚の辱めを受けず」だけを限定的に批判する作業を怠ってきた。戦後60年、亡霊を祀りおさめて消滅させるべき時期だが逆に、すべての戦死者たちが立ち上がって歩き出そうとしている。