松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

見たくないもの

フッサールの<志向性>や「明証性」の概念は、ものごとが<私>にとってつねに意味連関−意味統一として現われることを示すが、ハイデッガーの<気遣い>の概念は、それを一歩すすめて、ものごとはつねに意味=価値の連関、統一として<私>に与えられるということを示した。
p205竹田青嗣現象学入門』NHKブックス

わたしたちがそういうふうに世界というものを作っているのだとすると、自分の持っている価値観に適合的な物事は事実として受け取るが、そうでないもの(たとえばハイデッガーにとってのアウシュビッツ)は受け取らない、人間とはそうしたありようで存在するものだ、ということになる。内田樹が(ポスト)構造主義アウシュビッツの反省だとか言ってたがこういうことか。
 今日はデリダ『声と現象』を読んだのですがよく分からずあまり面白くなかった・・・