不可能性の上に存在する
12/20以降引っ掛かっている水村美苗ですが、このテキストはまず次のことを教えてくれた。
1.自前の身体でしか思考できない。わたしは。
であるにもかかわらずこのテクストは次のことも暗示している。
2.<外国>でしか思考できない。
このテクストは、「ソウルの高級ホテルのラウンジで」、
「(住んでいた米国から離れた)パリの安ホテルで幸せだった過去」を回想しながら、思考している。日本について。
すでに自己身体に浸透しきっているイデオロギー〜常識を思考するためには、きっかけがなければ不可能。(自分が作ったのではない)なんらかの他者が必要。というのは理屈に合っている。他者ではなく<外国>であればもっと良い、ということになります。
わたしのように平凡で国内的な生をおくっているひと*1は、せめて、戦争や江戸時代の本を読んでみる方が精神衛生上良いだろう。といえる。ただそれは一般論であり、現在の野原にとっては、江戸時代の本をあえて持ち出すことは、「いつもの安易なやり口」に堕している可能性もある。
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リベラリズムとは「この私」にとってのかけがえのない価値を(数ある選択肢の内の一つとして)相対化せよ、というきわめて残酷な命法を普遍化する残酷な思想だ。その残酷さに耐え切れないということが-カント(自律)的に言ってもヘーゲル(否定)的に言っても-「人間的である」ことのいわば文法的定義であろう。
http://d.hatena.ne.jp/gyodaikt/20041222 はてなダイアリー - 試行空間
上記北田暁大氏によれば、ヒューマニズムは他者を受けきれないというわけだ。まあそれは他者の定義そのものだった、のかな。
他者については思考できないはずなのに、わたしたちは他者についてだけ語り続ける。
他者のようでもあるが(本当は他者ではないかもしれない)もの、について語り続けているのだ。厳密な思考は出来ないが、それで充分ではないか。
*1:この表現はおそらく傲慢で許されない物だろう・・・