松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

言ってはいけない「女が好き」

デリダが女の形象を発見したのは固有化(略)の批判によってである。このようにしてデリダは、非決定性の「記号」、真正ならざることを固有財産とするものの「記号」である(理想化された)女を盾としつつ、男根中心主義の伝統から自らを差異化した。*1
スピヴァク『文化としての他者』紀伊国屋書店p96
現代思想12月デリダ特集p216 新田啓子氏の文章から孫引き)

新田氏の解説によれば、スピヴァクはここでデリダを批判しているらしい。こんなふうにデリダは「女」という記号に特権的普遍性を与えてしまった、と。「ゆえにスピヴァクは一見フェミニスト的な正義に溢れる「世界」ではない、どこか「他の世界」を選び、決定不可能な意味の受け手として、他者の到来を待つことを選ぶ。*2」でも他者であるなら到来しない可能性もあるからあまり良い考えにも思えない。

イスラエル政府の残虐性はいうまでもなく甚だしい。しかし、この暴力の連鎖は確実に、「敵」と「味方」を峻別する政治を永続化し、殺伐としたものとなるだろう。*3

新田は間違っている。50年以上前に遡る「イスラエル政府の残虐性」を正確には認識してこなかったヨーロッパ−アメリカの知の布置が倒錯であると知らずに「言うまでもない」など言ってみても、仲間内のエクスキュズにしかならない。イスラエル政府を正確に憎悪することこそが、「「敵」と「味方」を峻別する政治」から抜け出す道である。
 であるからして、わたしたちは誰に遠慮することもなく「女」という言葉を使っても良いのだ。

*1:女性を女と書き変えた

*2:同上、現代思想

*3:新田・同上p218