松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

(4)前提(10/21追記)(10/22朝、一部訂正)

α.わたしたちの社会・国家は、私たち自身各自の生きること(幸せ)の総体にその権威の基礎を置いている。
β.したがって、わたしたち各自は決定に参加する平等な権利を持つ。
γ.それぞれの人は平等な「生きる権利」を持つ。

平等という前提についてもう一度考えてみました。(上記は野原の表現)
これは前提として認められていると言える。この前提の背後に、人権主義=ヒューマニズムという確固とした思想が存在する、その思想は普遍的なものだ、とするのが日本ではいわゆる護憲派だろうか。わたしはそういう思想は取らない。*1この前提をフィクションと呼ぶのは、この前提以前に遡り思想実体を求めることをしないという立場表明である。
わたしたちの近代は、平等という前提に基づいて政治、経済制度を成立させてきた。こういう意味での前提を否定するのなら、他にどういう前提が用意されるのかをまず、聞かせてもらわないといけない。
「「人は最初は白紙」というのは思い込みでなくて現代社会を形作る為のフィクションなんだよ。」で最初の論点は、白紙か遺伝か?なわけですが、わたしは興味がない。

ある性によってものの感じ方や得意な仕事がかなりな程度決定されるという思想は間違っている。「性的役割分担をすべて否定する昨今のジェンダーフリー思想」はまちがっておらず、間違っているのは山形浩生だ。

上記2行は10/21に書いたが、山形さんからの指摘もあり、とりあえず保留します。今から考えて書き直します。

*1:人権派=啓蒙派は、学校秀才的人間をモデルとして全員がそれに近づくことが善であるという発想に成っていくような気がする。批判に成っていないので突っ込んでいただけば考えていきます。