松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

(2)平等という前提(10/20追記)

次の通りコメントが来た。

# hiyori13 『ほほう。そんな低級な議論で納得するわけね。で、おたずねしますが、その「フィクション」とやらはみんながフィクションであることを納得しているのでしょうか? もしそうなら、それがまちがっていることを指摘してもだれも文句はないはずですね。そしてもし多くの人がそれがフィクションだと知らずに本気で信じているのであれば、それは要するに、あなたがたは知的エリートとしてそれがフィクションであることを知っているけれど、愚昧な大衆をコントロールすべくかれらにウソを教え込んでいる、ということですね。そのウソをばらすな、と。そういう欺瞞はかまわないとするわけですか。』

 hirori13さんの問題設定にそって答えられないがちょっと考えてみた。
「女の政治家や重役が少ない等」ということが「性別役割イデオロギーのせいであり」それが「不合理である」から是正されるべきだ、と言っているのです。政治家は市民の代表であり、男女が異質なものであるなら、代表を半分ずつ出すことにしても別に不合理ではない。政治家に必要な資質というものと特定の遺伝子の組み合わせが強い相関関係があるなどという主張をビンカーさんはしているのでしょうか?
さて、「フィクション」というのはわたしの言葉ではないので説明しにくいのですが、要は私たちの社会は「一人ひとりが平等であり平等な生きる権利を持つ」という前提を社会的に受け入れている、ということでしょう。いわゆる知能の差異は(たぶん)あるでしょう。だが知能の差異を量る公的手段があるわけでもなく、学問的に公正な方法があるわけでもありません。先天的な差異を強調することにより結論として何を得たいのか。その論理にはたぶんごまかしがある。
「一人ひとりの能力に差がある」から「平等」というフィクションを守るために無駄なコストを費やすのは馬鹿げているとお考えでしょうか。私としてはそれぞれの人が「平等な生きる権利を持つ」という結論は譲れない、と考えています。この点については、立岩真也氏が丁寧な議論を展開していますね。