松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

不正に貫かれた単一支配

「彼らは、この運動を制御するのではなくて、この運動によって制御されているのである。」マルクス*1
商品に価値がある、そのことが主体にとってあたりまえとして受け止められることをマルクスは批判する。ある前提を受け入れることによって不定型なわたしは主体になる、そしてそれ以後わたしは何かを制御できる主体で有り続け、わたしがなにかメタレベルによって作られたものだということはわたしの認識の外部にありわたしににはたどり着けないことになる。
 崎山氏の本の最後の部分を引用しておきます。
 それは、不正に貫かれた資本制の単一支配に敗北するべき「理由」は、わたしたちの内在的な可能性のなかには一つとしてない、ということだ。
 多数性・多様性にみちた、いくつもの世界のつながりによって、地獄でしかないこの単一支配の世界さえも、はじめて存在しうる。そして多数で多様ないくつもの世界は資本の所有物ではけっしてない。それはわたしたちが生きる場であり、人びとの生を支えるそれらの世界をアタリマエに希求するわたしたちが打ち倒されることは、絶対にありえない。
 さまざまな世界を人びとのつながりあいのなかで信じ、わたしたちの生きる世界に変えつづけていくこと。わたしたちに必要なものは、この単純な真理なのである。

「世界を、不正な=単一支配」と呼ぶことにはわたしは賛成したくないという思いをずっと持っていました。それを天皇制と呼ぼうと資本主義と呼ぼうと。ただ今までのマルクス主義者と崎山氏との間には微妙だが大事な差異があるようにも感じる。世界を不正と名指しながら、「わたしたち=正義」という逆像を成立させることを避けようとし、それにまあ成功しつつあるという差異が。

*1:p35『資本』崎山政毅から孫引き isbn:4000270087