松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

平等な教育 で良い

小学6年生の親としては中学校では英数国それぞれ、週5〜6時間はやってほしいなどと凡庸なことを思ったりもする今日この頃・・・『教育』広田照幸 岩波フロンティアisbn:4000270079 を図書館で見たので借りてみました。良い本でした。
 朱子学のように普遍的に善である立場に教師が立ちそれを生徒に教えるという構図は崩れてしまった。「青少年を丸ごと帰属させ彼らに生き方を指示する各種の制度が、青少年の個々人の存在に先立って存在している、という感覚が失われた」*1のだと広田氏は捉える。そのとおりだろう。大人にとっての会社や労働組合、地域や家族すらそうであろう。一方で青少年は「自己の価値を自前で探そうとする強い欲求を」消費市場において試行錯誤する。そのとき学校は端的に魅力を失う。
 まず多様な個人が存在する。それを均質化、統制化してひとつの集団にまとめ上げようとする学校に対し、不満が高まる。それはもっともなことなのだ。だがしかしと、広田氏は言う。「学校批判の一連の運動が総体としてみると「強い市民」による「強い子供」像を前提とした学校変革論ではないのか」と。*2つまりぶっちゃけていうと、現在教育について多様な言説を繰り広げている主体はすべてインテリである。インテリの子弟は「強い子供」である可能性も高い。だが自分で情報を集めて判断する力のない親や子供だって世の中には沢山いるのだ。非エリートだっても楽しく過ごせる学校を作っていこうという主張は甘いひびきを持つ。だがそれで良いのか?

 「市場の自由」をもとにした教育システムは,ひょっとすると今よりも快適な学校生活を,ほとんどすべての子供たちにもたらすことになるかもしれない.自分が行きたいと思えるような学校を選び,学びたいものを選んで学ぶ.また,マイノリティの子供は,自分の家庭の文化がそのまま学校の場でも重視されるような,そういった教育を受けることができる.学校に行かなくても,もっと気楽に過ごせる場が用意されている…….しかしながら,その結果は冷酷である.教育の成果はいずれ労働市場で厳しい判定を受ける.ごく一部分のエリート向けの学校へ行った者を除いて,多くの子供たちは,大人になったときに自分に開かれている職業の選択肢が,さほどよくないものばかりであることを思い知らされることになる.もっと魅力的な選択肢は,別の学校や別のカリキュラムを選んだ誰かにすでに占有されてしまっているからである.慌てて「生涯学習」に取り組んでみても,キャリアアップに励むエリートたちとの差は開く一方,ということも生じる.つまり,「学校時代は誰もが幸せ/卒業したらほとんどが大変な人生」というシステムになりかねないわけである.
 第二に,もっと根本的な問題は,資源・環境の有限性を考えると,新自由主義的な経済システムは,不公正で持続不可能なシステムだということである.エネルギーや資源消費量の観点からみて,今の日本の人々の生活水準は,世界中の人々が長期的な未来に向けて享受しうる水準よりもおそらく高いレベルにある.貧しい国々の人々が今よりも豊かになる権利をもしわれわれが尊重するのであれば,また,遠い将来の子孫(今の子供たちではない)がある程度の豊かさを持った生活をしてゆく権利を,われわれが「ご先祖」として保障してやる必要があるとするならば,新自由主義的な原理による経済発展には,重大な問題があることになる(代替エネルギーなど新技術がすべての資源・環境問題を解決してくれるという楽観論があるが,決して根拠のあるものではない).環境的公正の問題は,もっと持続可能な経済システムの必要性を提起しているのである.それゆえ,グローバルな経済競争でトップを走り続けるための教育,というものとは別のものがデザインできないのかを,考えてみる必要があるだろう.
ほとんどすべての学校改革論や教育論は,長期的にみてわれわれが直面している,最も深刻で重大なこの問題から目を背けている.
*3

前半だけ引用するつもりだったが、後半も大事なのでついでに引用しました。
エコロジーに反する経済成長のためのエリート作りのための新自由主義的教育改革”が現在もっとも有力な潮流だと広田氏は認識する。そしてそれに対抗するためには、教育学の枠を越えどのような未来社会を作っていくのかというビジョンを語ることが必要になる。大量消費大量廃棄の資本主義はいけないというのはエコロジーであり、教育学とは関係ないという常識を越え、広田氏がこれを書いたのには、こういうわけがある。

*1:同書p25

*2:同書p37

*3:同書p80-81