松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

ヘーゲルは終わり?(12日間)

 やっと549頁終わりまで辿り着いた。読了とえいるようなものではないが。今日は10日、昨日(12日目)で終わったことになる。p140からあと410頁だから一日40頁で十日で終わろうとしたもので、ほぼ予定どおり。
 ただ内容的には、前から知ってた、「主と奴」「アンティゴネ」のところが一番面白いかなという感じで、乗れないところが多かった。引用してかみ砕いていけばいいのだがそれもできなかったのでね。でもまあ『精神現象学』は最も有名な本だが、条理の整った名著ではない。今まで誰も考えなかった発想を力強く提出する!という意気込みの強さだけで成立している本だ。それが資本主義あるいは近代国家の隆盛という時代の流れにたまたまシンクロした。たまたまではないわな。時代の流れの根本をを、ヘーゲルが、これがそうなんだと鷲掴みにした。という感じかな。でもまあ野原はそんなことを言うガラではない。なるべく人の引用しない1行を引用して感想を書きたいのだが。
「混沌とした現実を去って純粋にして自由な内面道徳へとむかうこと」は、反ヘーゲル的だ、と長谷川は言う。「自分へと還っていくことが、同時に混沌とした現実といっそう深くかかわることであるというのでなければ、弁証法の面目は立たないのだ。」*1
 前から思っているのだが、パレスチナ情勢は悪化したまま(高止まり)しています。たまたまパレスチナ・フォーラムというMLに2年ほど前加入しそれから毎日メールが沢山来るのでそう思うだけですが。つまり私にとってはパレスチナは遠い。本来そこで何があろうとふと同情心がよぎることがあろうとそれはその時だけであり、わたしというものの存在と交差することはないはずです。しかし、毎日数通のメールが来るということは、それらがほとんど読まなれいとしても、それがわたしにとっての現実になるということなのです。わたしというものは実に頑是無いものであり、ML一つ取るだけでその色合いが変わるものなのですね。それでなにが言いたいのかというと(ヘーゲルとの関係は?)、先の文章を入れ替えて「混沌とした現実といっそう深くかかわることは、自分へと還っていくことと、同時であるというのでなければ、ならない。そうでなければ可能でない。」と、感じているということです。

*1:長谷川『入門』p185