松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

金の為か自分の為か?

 えー正月だというのにヘーゲルとか読んでて淋しい奴だという自嘲にもめげず、四日目にして、やっと312ページまでたどり着きました!(「観察する理性」後半とばしたから)。これで後は240頁、40頁×6日分となります。
 「C社会」は長谷川訳では「絶対的な現実性を獲得した個人」となる。「徳」からこの章への変化は、政治運動に熱中した学生が、世間とは必ずしも自分が憎悪し軽蔑したようなものではないということに気づき世間に埋没していく、といったイメージで読んでもよいと金子氏は言ってる。(cf金子204)「C社会」はあまり歯切れ良くないが「a.精神的動物の国/b.立法的理性/c.査法的理性」となる。a.は長谷川訳では「精神の動物王国とだまし−−価値あるもの」、金子訳で「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」となっている。「価値あるもの」とは端的に「仕事」と理解してもよい。(金子p208)この段階の意識は、広く社会的に認められた価値にこそものごとの真理があると考える。*1
 ある人が何かを実行しようと思い立つ。例えばボランティア活動でもよい。友人は彼の目的はその社会活動そのものへの関心だと考える。そこで友人は、そのことはすでに第三者が一定の効果を上げていると知らせてあげる。しかし、ある人の関心は、行為の社会的効果ではなく自分がそれを行う事にあったのだ。つまり考えの基準を社会的効果にだけおいて考えるべきだとする事には<欺瞞>がある。*2(野原がこの文章を書く場合はまったく主観的価値だけですね。客観的には何の価値もない、主観的価値しかない文章。でもそう言いきるのもさみしい気がする。ここにも欺瞞はたぶんある・・・)欺瞞は確かにあるのだが、客観的価値あるいは主観的価値のどちらかか正解で他は虚偽とは言い切れない。ここで、個人と共同体精神は相互浸透している。

*1:作品社版p276

*2:p279作品社