松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

民、人、天

 光栄のベストセラーシミュレーションゲーム三国志には、「民忠(タミチュウ)」というパラメータがある。民の忠誠度のことである。これが低く成りすぎると民衆は反乱を起こして領主が殺される場合もある。したがって低くならないよう民に食糧を与えたりしておかないといけない。ここで定義されている民という概念はけっこう正解であり、中国思想史の最初期に遡りうるものだ。
 周の青銅器銘文に為政者の統治対象として登場する。『尚書』では、民は保(やす)んじおさめられるべきもの。この段階では民は自然の存在であり、統治の客体にすぎない。為政のバロメーターである。p44(光栄の場合と一致している。)

 人を発見したのは孟子である。天から付与された自然物である身体は、「思う」ことによりまた「身に返る」こと「心を尽くす」ことにより、身体が潜在的に有する新たな意義を見出していく。p48

 戦国後期の儒者において、「人」尊重の思想を継承した、「王による民の教化」という観念が確立する。人倫社会の成立は「王による教化」によって保証される。p64まあ考えてみると現在の教育基本法改正の論理はこうした伝統に起源している、ということはできる。しかし彼らの最高範疇は愛国心であり、アプリオリに天下に届かない。哀れなものである。
(以上ページ数は『儒学のかたち』関口順 東京大学出版会 参照)

 で、11/15に「でも人民という言葉はいかにもこなれない。スターリニズムの匂いさえする。」と書いたがこれは撤回することにする。孟子曰く「諸侯の宝は三。土地、人民、政事なり」(尽心下)