松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「反原発デモにおける日の丸・君が代」問題(2)

8/4の「反原発デモにおける日の丸・君が代」問題は、私としては懸命に書いたつもりのものだが、話を広げすぎていたりで、かなり分かりにくいものになっていると思う。http://d.hatena.ne.jp/noharra/20110804#p1

振り返って整理してみよう。


論点としてまず考えるべきは

(1)日の丸に反対するのか? 日の丸強制に反対するのか?

だろう。*1

@royterek さんという方の見解。
あくまで徹底して糾弾すべきは、公権力による君が代の強制なのであって、有象無象の群集がいる中でゲリラ的に使用された君が代の流用ではないはず。
http://togetter.com/li/170446

そう、糾弾すべきは公権力による強制!一人民が誰にも強制せず誰にも強制されずに君が代を流したり日の丸を掲げたことを糾弾すべきではない!
http://twitter.com/#!/sunafsunafsunaf/status/99153093685555200

と、砂布均さんの意見に私は全面的に賛成です。
特に東京石原都政での長い攻撃に続き、大阪橋下府政が条例化というランクアップした攻撃を掛けてきている事にどう反撃していったら良いか、私たちに問われていると思います。


ただ今回はデモにおける日の丸君が代なので、日の丸強制の問題はストレートには出てきません。
そこで問題は次のようになる

(2)日の丸は百%否定されるべきか? それとも日の丸に愛着を持つ人でも良い人はいるのか?


私たちは長い経過の末、国旗国歌法を可決されてしまったわけです。その情況にどう向き合うのかを示さず、前者の思想だけを提示することは少数派の枠の中だけでの運動しか考えていないことになるのではないでしょうか?
また日の丸は百%悪というのなら、また「天皇は百%悪」にならないのでしょうか?その場合、解決すべき政治課題の困難さはますます大きくなります。「憲法1条」の下でぬくぬくと生きてきた自分というものが存在する以上、自己の半身をまず「悪」として糾弾するプロセスを経ることなしに、まず他人を糾弾するのは、おかしいように思います。
日の丸を糾弾することで糾弾している自己が安易に肯定されている、という図式が存在する、と私は思っているところがあって、これは他者の存在様式の裁断ですから言い過ぎかもしれないのですが。

(3)日の丸はイデオロギー的存在か? それともそうではないか?

プレカリアートさんは「「君が代」賛美の価値観(天皇崇拝・国家権力への無条件服従)は、デモで掲げた「戦争・差別反対」「路上解放」や「人権尊重、公正な経済・社会の実現」とは、完全に相容れないもの」と述べておられる。

それに対する野原の反論「「君が代」賛美の価値観が、思想の自由を圧殺し無謀な戦争、戦争犯罪に対する主犯でしょうか? 「万世一系天皇」中心主義は、明治憲法にも明記されていますがそれが直ちに思想の自由の圧殺、無謀な戦争、戦争犯罪につながった訳ではないと思います。そう理解するのは歴史に対するイデオロギーの効果を重視しすぎでしょう。」


野原はむしろ、次の問いを提起し、そうではないと答えている。

(4)思想の自由を圧殺し無謀な戦争、戦争犯罪に対する主犯は君が代賛美的イデオロギーか?そうではないかのか?


1、2、3、4を通して野原はA(左の答え)には否定的である。ただ日の丸に賛同しているわけではない。ただそういう人の参加も一概には否定しないと言っているだけである。だいたい権力者や政治家など自分とは思想が違う人や国や地方公共団体などと交渉し、何らかのものを引き出したりするのが運動というものではないのでしょうか? まさか「ネトウヨを叩く」ことをモデルとして社会を理解しているわけではないのだろうと思うが、なんだかそれに近いのではないか?


さて問題は、野原が8/4で長く書いた事が、上記の1〜4にうまく当てはまらず分かりにくいという事でしょう。

(5)まず憲法1条は「主権は国民にあり、天皇は意味のない飾りだ」とも解釈できるが、そうでない解釈もあり、政治家、官僚の間ではそちらの方が多数派。これについては、野原はA(左の答え)を肯定。

(6)「戦争・差別反対」「路上解放」+「人権尊重、公正な経済・社会の実現」という立場というか思想がすでにあり問題はそれを共有し拡大していくかどうかだ? という発想と、そういう発想を取らない人(野原)。

この違いが、プレカリアートさんと私との間でもっとも大きなものかもしれません。
(6A)の思想が成立するためには、(5A)は絶対に必要であり、(5B)とは共存できません。野原も(5A)は絶対に必要には同意するのですが。

(7)戦後の長い経過のなかで「学習指導要領」というものを官僚が姑息にこそこそ変える事で、日の丸君が代は社会に再浸透した。でその官僚の策動は「反新憲法、反民主主義を指向する保守政権による〈天皇を中心にした神の国〉なる「君主制」への「国家意思」という右翼思想的なものか、そうではなく単に「(官僚に)従順な国民を育てたい」とする姑息な欲望なのか? これが私の8/4の中心をなす問いかけです。

私は(7B)と考えるので、「現在の日の丸が右翼的なものである(3A)」は否定される事になります。


しかしまあたぶんこの(7)は、私以外あまり言ってる人もいないかも知れず、理解していただきにくいかもしれません。


http://d.hatena.ne.jp/noharra/20051109#p1 に「天皇退位論」について書きました。

 わたしたちの憲法はその1条に天皇をいただいているわけですから、やはり天皇という一個の人格に価値の根源を求めてしまうことも或る程度避けられないでしょう。昭和の前半と後半をヒロヒトという同一のペルソナが表象しているという事実は憲法より重い。つまり日本は国民主権の国ではなくそれ以外の何かだったのです。

 ところがそうだとすると困ったことが起こります。天皇制の倫理的根源は皇祖皇宗であるわけです。宣長や篤胤も儒教の理、天、民といった審級をただ単に否定した訳ではありません。言あげせずともそのような価値は自ずから天皇とその背後(皇祖皇宗)に現象しているというのが彼らの考えでした。

 敗戦を皇祖皇宗に恥じない天皇というものはありえません。

天皇は(新憲法でも相変わらず)価値の根拠なのですから、敗戦によって退位すべきでした。そうしなかったことによって天皇制は変質します。天皇は正義や真理と無縁のものとなり、秩序という枠組み(官僚が支配する)だけが肯定される事になります。


今回の原発が明らかにしたのは、日本は官僚や一部の有力者の結合といった民主主義といったプロセスとは無縁のところで形成された勢力が支配(部分支配)しており、首相や国会もそれらを直ちにはどうにもできないという事でした。正当化の契機を欠いた勢力が支配層に存在してもよい、そのことと天皇非退位は関係ある。そうである日本で、日の丸を右翼的なもの(戦前的なもの)と考えるのは、彼らが説明できない正当化をわざわざ彼らに代わってしてやる、ようなものではないでしょうか?


(以上書きかけ 整理のつもりが整理になっていないかも)

いままで自分が持っていた常識が失われてしまうという体験

が大事であり、苦しくてもそこから何かが出てくるまでたえるべきだ、みたいな思いが私にはある。
「反原発」という誘いを隣人にしたときに、隣人が沈黙していたとして、彼を啓蒙しようとすべきか。啓蒙しようとすること自体は悪いことではないが、自分が今気づいていない問題点が引っかかっているが故に沈黙しているのかも、とか、常に〈他者への怖れ〉を忘れてはいけない。
で、ある種の大きな危機は、ふるさとというものや愛国心とかと関係してでてくることが多い。*2 これは政治的なナショナリズムとは別の位相のナショナリズムだ。また別の問題だが、地域の雇用問題から地域における原発企業の存在を是認するといった論理もある。
自分のイデオロギーからこうしたものを否定してしまってはならないのであって、その人の自分でも対象化がうまくできない彼がかかえてしまっている問題の錯綜といったものを、こちらも理解し腑分けしようとしていくべきだ。

(9)英米派的、自由主義的、ファシスト的、社会主義的、資本家的、官僚的な部分の戦争責任は問わなくてよいのか、問うべきなのか?

 1945年8月からの日本の変革について、戦争責任を明確化し責任を取らせていく行為があまりにも少なくしか行われなかった、事を指摘しうると思います。このことについてはプレカリアートさんも同意いただけるのではないでしょうか。
 乱暴に言うと、旧体制派のうち、農本主義的あるいは皇道派的あるいは神がかり的部分は清算されたけれど、少しでも英米派的、自由主義的、ファシスト的、社会主義的、資本家的、官僚的な部分はすべて生き残り、保守派が主導する戦後日本の支配者になったわけです。
 旧体制派のうち右翼思想的天皇主義的軍国主義的なもの、に戦争責任があるとする思想は戦後民主勢力平和勢力によって高唱されました。当時の情況からして当然だった面もあります。
 しかし本当は右翼思想的天皇主義的軍国主義的なものによって戦争が遂行されたわけではなく、英米派的、自由主義的、ファシスト的、社会主義的、資本家的、官僚的な部分も一時的弾圧を受けたりしながらも基本的に戦争遂行体制に大きく力を貸した事は間違いありません。
 プレカリアートさんの「君が代」賛美の価値観=(天皇崇拝・国家権力への無条件服従)という右翼思想観は、戦後の枠組み(ほんの少し自由主義的だった体制派が自らの責任は無かったことにして戦後の支配者になっていく)と親和的なものになってしまっているのではないでしょうか?
(8/7記)

*1:「日の丸・君が代」と表記すべきところ煩雑になるためとりあえず「日の丸」と表記する場合があります、ここ以後も。

*2:日の丸と関係が出てくるかどうかは不明だが

君が代は問題で、日の丸はOK?

というか、主催者行為は問題で参加者はOK?

モブ・ノリオさんはあえて日の丸に「原発反対」のスローガンを書き入れていました。

 私は、「日の丸」に「反原発」を書き入れても全然問題ないと思います。色んな考え方の人がいますから。そういう人が反原発デモに参加するのも全然OKです。6月の東京・新宿デモの場合は、私の知る限りでは、右翼からの発言も「脱原発」に限定されたものを予定していたようなので、別段問題なしという認識でした。そもそも、それ以前に、デモ主催者の方から右翼に参加要請をしておいて、後で一方的にキャンセルしたのですから、責められるべきは寧ろ主催者の方です。(プレカリアート
http://blog.goo.ne.jp/afghan_iraq_nk/e/d7294ce037f19e279ce27c94f7622b91?fm=rss コメント欄

私の8/4で大きくかかげている「反原発日の丸」については、プレカリアートさんは「全然問題ない」という判断。

(サンドデモの主導車スピーカーが)いつもネトウヨの人たちが邪魔しにくる難波の交差点であえて君が代を掛け、君が代を掛けている時はMCを極力抑え、
その次に君が代をめちゃくちゃにアレンジしたフリージャズの曲を掛けながら、
踊れ!と橋下の国家*1起立と風営法でのクラブ取り調べを批判していました。
上記米欄 Unknown (yokoching)発言

では何が問題かというと、君が代をかけたこと。
その時最後尾にいた若者(デモ参加者)が走って行って(たぶん暴力的に)止めようとし小競り合いになった。


日の丸・君が代拒否派にもいろいろなニュアンスがあることは確認しなければならない。
私としては、「君が代」賛美の価値観(天皇崇拝・国家権力への無条件服従)は、「日の丸」賛美の価値観(天皇崇拝・国家権力への無条件服従)、とも言い換えうるかなと思うので、8/4の記事はそのままにしておきます。

*1:国歌の間違い

226事件から小泉・橋下まで

http://blog.goo.ne.jp/afghan_iraq_nk/e/d7294ce037f19e279ce27c94f7622b91#comment-list にコメントしたもの。

プレカリアートさん
気ままなコメントになりますがいくつかコメントしておきます。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20110806 の続き)

しかし今回の大阪の場合はどうでしょう。「脱原発」限定どころか、主催者自らが「君が代」を歌い出したというのですから、すわ「ミイラ取りがミイラになってしまったのか?」と訝しがられても仕方がないのでは。

在特会がいつも現れる場所で君が代を少し流した=「君が代+反原発なら受け入れますよ」つまり「君が代+親原発なら受け入れようがないね」というメッセージではないでしょうか。「彼らに丸ごと同化しかねないという懸念」をどうして感じられるのかよくわかりません。

確かに226事件を起こした青年将校の中には、凶作や娘身売りなどの当時の農村の窮状に憤って、クーデターに加わった者もいたでしょう。また、彼らの精神的指導者でもある右翼の北一揮が「国家社会主義」を信奉したのも事実です。しかし、彼らが唱えた窮状の打開策というのは、農村の経済的困窮の原因を徒に国内人口の過剰のみに求め、大陸侵略にそのはけ口を求めるものでした。つまり、あくまでも当時の国策を補強するものでしかなかった。

そうですかねえ。蹶起趣意書によれば、

http://hanran.tripod.com/japan/226.html 
「所謂元老重臣軍閥完了政黨等は此の國体破壞の元兇なり、(略)
 内外眞に重大危急、今にして國体破壞の不義不臣を誅戮して稜威を遮り御維新を沮止し來れる奸賊を芟除するに非ずんば皇謨を一空せん。」

重臣たちへのテロに打開策を求めている。「農村の経済的困窮の原因を徒に国内人口の過剰のみに求め、大陸侵略にそのはけ口を求めるもの」というのは誰の主張によるものなのでしょうか。教えてください。


クーデターを起こした勢力を反体制とは看做さないとは、階級的視点にたたないものはまともな勢力とみなさない左翼史観でしかないと思います。

民衆の立場からすれば「あくまでも当時の寄生地主や財閥と同じ立場に立つもの」で、「所詮は敵でしかない」。つまり「今の在特会と全く同じ」です。

論点は当時「民衆の立場」というものが成立していたと考えるべきなのか、という点です。
「つまり今の在特会と全く同じ」という発言が、すらっと出てくる所はびっくりしました。在特会などただのゴミであり現在社会における「勢力」ではない、と判断します。ネトウヨも数は多少多くともノイジーマイノリティにすぎません。それと多様な体制派を一緒くたにして「敵」を構成してしまうのは、間違った認識です。

しかし、その庶民による「受動的・消極的」支持(許容)こそが、今の右傾化の基盤となっているのではないでしょうか?

物事を「受動的・消極的」に支持(許容)する、というのは庶民の定義のようなものです。それにどういう立場から批判を加えるのでしょうか。それに私たち自身そうした意味で、庶民であることを全面的に拒否できるとも思えません。


「小泉の人気が未だに堅調なのも、」それは、純粋の「受動的・消極的」支持(許容)とは異質です。
小泉は天才で新しい政治的ファッションを作った。橋下も今後そうしていくでしょう。それをファッショとののしることに何か意味があるとは思えません。彼らは言葉を操っているだけなのだから、私たちも本来対抗できるはずなのではないのか?(私はむりでしょうが)